今週の説教

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《今週の言葉》


 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
(マルコによる福音書 第10章51〜52節)


安心して立つ


2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日(典礼色 緑)
福音書日課 マルコによる福音書
第10章46〜52節(『聖書』 新共同訳 83ページ )
讃美歌21 18 461

緊急事態宣言が解除されましたので、会堂に集うかたちでの「奏楽を伴う礼拝(式文を短縮・讃美歌は2曲)」を注意深く再開いたします。動画配信は継続いたします。どうか、くれぐれもご無理がないようにしてください。

 道端から、一人の盲人が猛然と叫び声を上げました。『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください…!』

 一度でも希望が見えない闇を経験した者なら、ここで主イエスに会うことができた盲人の気持ち、よくわかると思います。

 “イエス”――。闇の中に、そのお名前が聞こえてきたのです。いったい、どんな方なんだろう。もしかしたら、このお方なら、何とかしてくださるかもしれない…! この光を取り逃したら、もうチャンスはないというような思いで、この男は叫びました。

 主よ、わたしを憐れんでください。助けてください。わたしの声が聞こえますか。わたしはここにいます。しかしわたしにはあなたが見えません。主よ、どこにおられるのですか。わたしの声が聞こえますか。主よ、わたしの声を聴いてください…!

 その声を聞き取って、主イエスは立ち止まってくださいました。私どもも等しく、どこかで経験しているはずの出来事です。

 ルカによる福音書は、この盲人の名前を記しておりませんが、マルコによる福音書第10章の最後のところを読むと、その名前は〈バルティマイ〉であったとある。マルコがその名前を残したのは、おそらく、のちの教会の人びとにとっても、この名前がよく知られていたからでしょう。〈バルティマイ〉と聞けば、ああ…あの目が見えるようになったバルティマイおじさん、というようにすぐに分かったのです。そして、ああ…これはバルティマイおじさんの物語だと喜びながら、この物語を何度も何度も聴き続けた人たちが、そこにはいたのです。

 ルカがその名前を記さなかったのは、既にバルティマイという名前が人びとの記憶から薄れ始めていたからかもしれませんし、あるいは、これはこの男ひとりの物語ではない、われわれ自身の物語だと思ったからかもしれません。

 バルティマイ――。彼は、行き交う人びとの足音で、世の中の様子を受けとめているひとです。ある日、いつものように道端に座って物乞いをしていると、その耳に、ただならぬ雰囲気が伝わってきます。遠くの方から、大勢の人たちがやって来る。これは何だろうか――巡礼の人たちじゃない、商人たちの歩き方でもない…何か勇ましいような人びとの足取り。いったい何が始まるんだろうか…。いよいよ群衆の波が近づいてきたとき、彼は尋ねたんです。「これは、いったい何事ですか」。ひとりの人が、答えました。「ナザレのイエスのお通りだ」――。

 「ナザレのイエス」。彼もまた、この名前を、どこかで、知っていたのです。今評判の大人物。力強く神の言葉を語り、悪霊を追い出し、治らない病さえ癒すひと――。考えたのではありません。考えるよりも先に、叫んでいたんです。

 わたしを憐れんでください。ダビデの子よ、どこにおられるのですか。わたしはここにいます。イエスよ、イエスさま…わたしの声が聞こえますか。どうか聞いてください…!
目が見えませんから、とにかく声が 届くように――それこそ、火がついたように叫び始めた。

 ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください…! わたしを憐れんでください…!

 慎みがあるとか、礼儀正しいとか――周りのことを気遣うとか、もう、そんなどころではないんです。もしここで主イエスに通り過ぎられてしまったら、もう二度とチャンスはないと思うから、我欲をそのままにするように、声を荒げ力の限りに叫ぶ。

 ところが、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」。「先に行く人々」、つまり、主イエスと共にいた その先頭を歩く人たちが――これはきっと弟子たちのことでしょう――弟子たちは、このひとを黙らせようとした。「うるさい、黙れ、いいかげんにしろ! お前の出る幕じゃない…」。

 ところが、押さつければ押さえつけるほど、男は猛烈な勢いで、四方八方に叫び続けた――。

 ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください…! わたしを憐れんでください…! どうかお聞きください――。
そして、主イエスの足が、止まるんです。

 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。

 ルカ福音書の伝えるところによりますと、ここでは、主イエスが直接、このバルティマイを呼んでくださったわけではないようです。主イエスがこの人に近づいてくださったわけでもなさそう。主イエスは立ち止まったまま おっしゃる。「あの人をわたしのそばに連れてきなさい」。

 主イエスご自身ではなく、そのように命じられた誰かが わざわざ呼びに行ったのです。もしかしたら、ついさっきまでそれこそ先頭に立って「うるさい、いいかげんにしろ…!」と怒鳴っていた人が、慌てて態度を変えて、「お、おう、お前、イエスさまがそばに来いっておっしゃっているぞ。よかったなあ」などと言ったのかもしれません。

 なぜ、主イエスがご自分でこの男に近づいてくださらなかったのだろうか。なぜ直接、わたしがあなたのそばにいるよ、と言ってくださらなかったのだろうか。立ち止まったまま、ほかの人に「連れて来るように」と命じられた。何だかいつもの主イエスらしくない、という感想もあり得るかもしれません。

 しかし私は思う。この主イエスの言葉、「あの人を、わたしのそばに連れて来るように」――。この言葉こそ、のちの教会の人びとが大切にした言葉であったに違いない、と。

あの人を連れて来なさい。わたしのそばに連れて来なさい…!

 どこに連れて行くのか。主イエスのそばに、です。私どもも、主イエスから命じられていると思います。あの人を連れて来なさい…!

 そして実際に教会は、そのように生きてきたのです。闇のような場所にいる人のところに出かけて行って、告げるのです。
だいじょうぶ、あなたはひとりではない。主が、あなたを呼んでおられる。わたしのそばに来い、とおっしゃっている。

 皆さん…! これは、私ども教会にゆだねられた言葉です。ほんとうは、すべての人が、このような教会の言葉を必要としているのです。この日本という国もまた、このような教会の言葉を必要としているのです。「わたしのそばに連れて来なさい…!」。このお方のところに行くのです。連れて行くのです。

 誰かがバルティマイの手を取って、一緒に行ってくれたに違いありません。主イエスのところに近づこうにも、先ずは誰かが手を取ってくれなければ、いったいどっちの方向に歩き出したらよいかも分からなかったでしょうから。そしてようやく主イエスの前に立ったときも、「ほら、お前のすぐ前にいるのがイエスさまだぞ」と、誰かが教えてくれたのです。そうでなければ、何も分からなかったでしょうから。

 私たちも、そうです。私どもも例外なく、最初は、この、バルティマイと同じように、そのように主イエスの前に連れて行ってもらった一人、ひとりなのです。

 やって来たバルティマイをご覧になった主イエス。そして彼にむかって、開口一番、ひとつを問われます。何をしてほしいのか――。

 ああ、これが、主イエスの声か……。しかしそこで何を問われたかというと、「あなたは、わたしに、何をしてほしいのか」。

 ある神学者は、ここで彼は答えに詰まったのではないかと想像しています。「何をしてほしいのか」。そう言えば、自分は何をしてほしいんだろう……。答えに詰まった。そうは思わないという方もおられるかもしれません。そんなことは分かり切っているではないかという感想もあり得るかもしれません。しかし、この人は、これまでもいろんな人から同じことを聞かれてきたと思います。「何をしてほしいのか」。衣食住に関わることだけでも、いろんなことで、いろんな人から、「何をしてほしいのか」と聞かれてきたと思います。

 しかし今、このイエスというお方の前に立ちながら 改めて問われます。何をしてほしいのか。

 そう言えば、いったい、私は、何をしてほしいんだろう……。「一生困らない額の施しをください」とか、「わたしの生活を支えてくれるパートナーを与えてください」とか……。今、私の言葉を聞きながら、ばかばかしいとお思いになる方もあるかもしれませんが、私どもだって突然こういう問いの前に立たされたら、案外、こういうレベルの願いを口にすると思います。イエスさま、わたしは今こういうことで苦しんでいます。だから、こうこう、こういうふうに助けてくださいませんか。もちろん、そういう祈りが間違っていると言うのではない。主イエスは既にこの同じルカによる福音書の第11章で、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」とおっしゃいました。神にむかって願い続け、求め続ける――。それが祈りです。

 けれども、そこで、改めて主イエスは問われる。あなたは、何をしてほしいのか…!

 あなたのほんとうの願いは何か。あなたの根本的な求めは何か。私どもも、問われていると思います。「何をしてほしいのか」。いったい、私どもは、神に何をしてほしいと願っているのでしょうか。

 このバルティマイは、言葉に詰まりながらであったかもしれない。もしかしたら、その声は震えていたかもしれない。けれども、万感の思いを込めて申しました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。

 私は思います。彼は、生まれて初めて、この願いをはっきりと口にすることができたのではないか。それまでにも、いろんな人から、「何をしてほしいのか」、「何かしてほしいことはありますか」と声をかけてもらったと思います。そしていろんな願いを口にしてきたと思います。けれども、ここでは、〈主よ〉。はっきりと、神の名を呼んでいます。

 主よ、わたしは、生まれて初めて、この願いを口にいたします。……目が見えるように、なりたいのです。他の誰にもお願いしたことのない願いです。けれども、イエスさま、あなたにだからこそ申します。目が、見えるように、なりたいのです。

 このお方に対してなら、この願いを口にすることができるのだということを、どういうわけかこの人は悟ることができました。このお方にならできる。このお方に、わたしは願う。……これが〈信仰〉です。信じたからこそ、口にすることのできた願いであったのです。だから、主は仰った。「あなたの信仰があなたを救った」。

 主イエスがあえて、この人に、「何をしてほしいのか」とお尋ねになったのは、このような〈信仰〉をお求めになったからではないかと思います。はっきりと自分の口に出して言う。

 主よ、わたしはあなたに願います。あなたに、してほしいことがあるのです。あなたにしかおできにならないこと、それをあなたに願います。
 
 これが、信仰です。ここに、主イエスにまっすぐに向かう、ひとすじの心が生まれました。

 バルティマイの信仰が、彼自身を救いました。そして、目が見えるようになった彼が、最初に見たのはもちろん、主イエスのお顔だったでしょう。自分をまっすぐに見ていてくださる、主イエスのまなざし、それが真っ先に彼の目に飛び込んできた。その主のまなざしは、明らかに愛のまなざし。このわたしの叫びを聞いて、立ち止まってくださった方のまなざし、このわたしの祈りを聞いてくださった方のまなざしです。

 ああ…そうだ、わたしは、このお方を見るために、これまで生きて来たんだ。これまでの悲しみも苦しみも、全部この時のためだったのだ。このお方を見るために、いや、このお方に見ていただくために、わたしは生きているのだ。

 だからこそ、バルティマイは、すぐに主イエスに従って行きました。どうもありがとうございます、これで人並みに働けます、さようなら、などと言ったのではない。自分の見るべき方はこの人だ、自分の歩むべき道はここだと、見るべきものをしっかりと見定めて、主イエスについて行きました。

 主イエスの後に従ったバルティマイ。この後どうなったのか、福音書には記されていません。ただ、私はこう想像します。彼はそのまま主イエスについて行き、エリコの町に入ったのだと。
この出来事が起こったのは「主イエスがエリコに近づかれた時のことであった」と第18章の35節にあった。おそらくエリコの町の入口のような場所であったのではないかと言われますけれども、そこで物乞いをしていた男が今や目を開かれて、主のみあとに従う者とされた。

 町に、入ると、そこで主イエスは、今度はザアカイという徴税人の頭、おそらく町で一番大金持ちの家にお泊まりになります。町で一番貧しいバルティマイに出会ってくださったと思ったら、今度は町で一番のお金持ちの家に救いをもたらしてくださった。それこそザアカイは、それまで見たこともないような、主の愛のまなざしにとらえられたことを知ったに違いない。こんな優しい目で、人に見てもらったことがあっただろうか。その愛に触れて、ザアカイは、自分の財産の半分を貧しい人に施しますと、喜んで約束してしまいます。貧しい者の代表のようなバルティマイもまた、さっそくその恩恵にあずかったのでしょうか。

 しかし、バルティマイがそこでも何と言ってもこころを打たれたのは、ザアカイに注がれる主の愛のまなざしであったでしょう。“ああ…!あの時の目と同じだ。このザアカイも、このお方に愛されている…”。見つめられている。わたしと一緒だ。よかったですね、やっと見るべきお方を見ることができましたね、とバルティマイはザアカイを祝福したかもしれません。

 けれども、主イエスの歩みが止まることはない。エリコの次は、都エルサレムへと入られる。多くの人びとの喜びの声に迎えられて、主イエスはエルサレムにお入りになった。バルティマイもまた、まことに誇らしい思いで、主のあとについて行ったと思います。けれども思いがけないことに、その週のうちに主イエスは捕らえられ、十字架につけられ殺されてお仕舞になる。バルティマイもまた、その主の苦しみの様子を、開いて頂いばかりの目で見たのです。いったいどんな思いで、その苦しみの御顔を見たのでしょうか。こんな辛いことを見せられるくらいだったら、昔のように目が見えない方がましだったと、もう一度闇の中に戻って行くような経験をしたのではないだろうか――。

 けれども、皆さん…! 主イエスのまなざしが、バルティマイの目を開いてくださった主イエスのまなざしが、バルティマイを見捨ててしまったことは、一度もないのです。

 そして私は信じる――。このバルティマイもまた、復活の主イエスに訪ねていただいたのです。お甦りの主が、ペトロを始めとする弟子たちにもう一度出会ってくださったのと同じように、このバルティマイもまた主の弟子の一人として、お甦りになった主イエスに直接訪ねていただいたのだと私は信じる――。

 バルティマイは後に、自分の教会で喜んで語り続けたに違いない。お甦りの主イエスが自分を訪ねてくださったことを。――そして主が天に昇られ、肉眼では見えなくなった後も――信仰の目をもってなお主を仰ぎ続け、自分を捕えてくださったお方のまなざし、自分もそのお方を見ることができた、その主の眼差しのことを語り続けた。

 わたしは主イエスに呼ばれた。主イエスのそばに行くことができた。そして、このお方のまなざしを見ることができた…!

 バルティマイは何度でもその物語を喜んで語り続けた。お甦りになった主イエスは、たとえ私どもが主を捨てても、私どもを捨てることはない…! その主のお声を、私どもは、聞きました。誰かに連れて行ってもらったのかもしれない。けれども主の前に立つことができた。主のまなざしを仰ぐことができました。そのお方を知っているから、私どもは、その呼び声を伝えるために、主に召されて、きょう、ここに生かされています。

 いのちの主が、あなたを呼んでおられる。わたしと今一緒に、あのお方のそばに行こう…!
そのような力ある言葉を、私どもも、相手に伝えることができる。このような望みを与えられている賀茂川教会であることは、何と幸いなことであろうか――。祈りを致します。

 今新しい思いで、主の前に立ちながら、私どもも今、ひたすらに祈り願います。私どもの目を開いてください。見るべきものを見せてください。私どもを見つめていてくださる、あなたの愛のまなざしに気づかせてください。そして今、もうひとつの祈りを加えたいと願います。どうぞ私どもの隣人を、主のおそばに連れて来ることができますように。私どもにそのような志と勇気と、また望みを与えてください。何よりも、そのようなあなたの願いを、今私どもも、私どもの願いとして受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン