今週の説教

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《今週の言葉》


 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書 第4章21節)

実現した言葉


2022年1月23日 顕現後第3主日(典礼色 緑)
福音書日課 ルカによる福音書
第4章14〜21節(『聖書』 新共同訳 107ページ )
讃美歌21(新型コロナウィルスの感染急拡大に伴い、讃美歌・奏楽を伴わない、さらに短縮された礼拝と致します。また、「まん延防止等重点措置」が適用された場合、その期間は主日礼拝をはじめ、教会のすべての活動を休止致します。)


 今日の日課の書き出しの、第4章14節に、こう書いてありました。「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」。荒れ野で過ごした、試練の日々が、終わりました。40日間の断食。悪魔に試みられた、日々です。主イエスの身体は、痩せていたと思います。足取りはフラフラであったかもしれません。しかし、その瞳は、爽やかであった――。痩せた体からは、むしろ聖なる力がみなぎっていた。ここから、始まるんです。この地上に福音をもたらす、主キリストの始まっていく――。

 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(16節)

 神さまが定められた、安息日です。すべての人が働きを休んで、神様に礼拝を献げます。それぞれの会堂に、人が集まってきます。そして主イエスも、この中にいた――。

 当時の会堂は、比較的自由な、雰囲気があったようです。家庭的と言った方がいいのかもしれません。会堂長が指導者で、会堂の責任を持っているひとです。このひとが許可を与えると、イスラエルの成人男性であればだれでも、礼拝の席で、信仰の勧めを語ることができた。

 エルサレムの神殿は、祭司たちが、取り仕切っています。礼拝の奉仕は、祭司や、レビ人以外には許されなかった。で他方会堂では、それぞれの会堂に属する人が、力を合わせて、会堂の運営をしていた――。そしてこの日主イエスは、聖書を、朗読いたします。イエス様も礼拝奉仕をする。渡された書物はイザヤ書。目に留まったところは第61章の1節以下――。

 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(17〜19節)

 主イエスは、会堂の礼拝の席で、聖書を朗読した。単に、聖書を読む係だった、こういうことではありません。主イエスは、イザヤ書に書いてある神の言葉を、ご自身の言葉として、お語りになったんです。会堂で、共に礼拝をささげていた人びと、驚いたはずです。そこには、今までに聴いたこともない、神の言葉の響きがあった。人びとは、たちまち静まり返ったはずです。主イエスに注目する。そして主イエスは、人びとの期待に応えるように、ゆっくりと、はっきりと、語り始められるんです。

 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 預言者イザヤによって語られた救いの言葉、この言葉は、今日実現した。み言葉を実現するわたしが、あなたがたの前にいるからだ…!

 主イエスはこう語られた。

 預言の言葉に、注目したいと思うんです。「主の霊がわたしの上におられる」。これまで語られてきたとおり、主イエスは受洗の際、聖霊をお受けになりました。「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」。そしてこの霊は、荒れ野の40日間を経て、力を現したんです。

 洗礼の時に聖霊を受ける。その霊に導かれて荒れ野に入る。荒れ野から出てきたとき、主イエスは霊の力に満ちていた――。この一連の出来事は何のために起こったのか――。貧しいひとに福音を、告げ知らせるためです。

 述べられている貧しさっていうのは、経済的な困窮、これだけのことではありません。救いを必要としているすべてのひと――。これを指すんです。飢え渇くように、神を求めている。救いを求めている…。この一人ひとりを救うために、神は御子イエスを、世に遣わされた。聖霊を満たして、世に遣わされたんです。

 救われるべき人びとの代表者として、三通りの立場が、述べられていきます。囚われている人、目の見えない人、圧迫されている人――。

 世の中に、囚われていない人が、いるでしょうか。人は、他人からは囚われないとしても、自分自身には囚われるものです。誰も責めていない。けれども、自分で自分のこころを、縛り上げてしまう。「目の見えない人に視力の回復を告げ」。目の見えない人とは、身体の痛みを、代表するものです。病を得る、ハンディがある、あるいは衰える。文字通り、生身の身体で生きるわたしたちです。この身体に対して、神の与える救いがある。

 三番目に語られるのは、圧迫されている人びと。何事か、圧迫され、抑圧を受けている。強いものが、弱いものを踏み倒して、幅を利かせる。利益を得、自分の想いを遂げていく。この現実に対して、神が「否!」を下す――。これを述べています。圧迫や、抑圧を加える者たちが退けられて、苦しむ人びとが、自由にされていくんです。

 最後に述べられているのはまとめの言葉です。

 主の恵みの年を告げるためである。

 ヨベルの年――。この言葉を、聞いたことがおありでしょう。旧約聖書のレビ記、第25章に出てくる言葉です。ヨベルの年というのは50年に一度巡ってくる、解放の年、のことです。

 当時のイスラエルの民は、家ごとに、土地を持っていました。これは神さまから与えられた、約束の土地です。尊いものです。ところが、それぞれのお家の事情によって、土地を売らなければならない。あるいは今抵当に入っている。こういうことが起こります。そして50年に一度、ヨベルの年が巡ってきます。そうすると、土地の所有が、本来のひとのところへ帰るんです。ヨベルの年――。

 今日的な言い方をすれば、リセットされる年です。この年が巡ってくれば、負の財産は帳消しになって、原点に帰ることができる。積もった苦しみがある。しかし恵みの年ヨベルの年が巡って来た。主イエスが世に来られた! 恵みの原点、神の前にひとりひとりが立つ。恵みの原点に立ち帰ることができる…!

 イザヤが告げたところ、神さまが与える救い、約束している救いは、現実的なものです。こころの問題、身体の問題、対人関係や社会の問題。すべて、わたしたちが生きている人生の現場のことです。ここに救いが与えられる! ヨベルの年のように、神様が解放をもたらす。新しい地平が開かれてくる――。まさにこれを実現する方として、主イエスが世に来られた。そしてイエス様ご自身が言うんです。

 この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。救いを、ほんとうのことにする…! わたしが、あなたがたの前にいる――。

 ――ここで、わたしたち、考えてみたいと思うんです。わたしたちは聖書が告げる福音を、狭く考えてしまうことは、ないでしょうか。内面的にばかり、捉えてしまうんです。信仰はこころの問題、魂の救いなんだ――。このようにしばしば、限定して考えてしまう。けれども聖書が示すところは、違うわけです。ただこころだけではありません。こころも、身体も、対人関係や社会生活も含めて、人間生活のあらゆる場が、救いの対象になっている。むしろ、救いの対象になっていないところはないんです。

 これはわたし自身の反省です。求道者の方から問われるんです。“キリスト教会の言う救いっていうのは何なんですか”わたしは言います。“主イエスによって実現した、罪のゆるしと永遠の命の約束です”。パッと応えてしまう。間違いではありません。むしろ正しい答えかもしれない。けれども、狭いんです。

 たしかに、人間の根本的な問題は、神と人とに対する罪の問題です。そして、誰もが迎える死の問題。けれども、それがすべてではありません。

 イエス様は、多くのひとを訪ねました。どんな人を訪ねたんだろうか。主イエスを慕って、集まってくる、何十、何百あるいは何千という人たち。どういう人たちだったんだろうか――。改めて、申すまでもないことです。こころや身体を病むひと、孤独なひと、人から嫌われている人、希望を失った人、人生に悲鳴を上げている人たちです。主イエスは、このような現実を抱える一人ひとりを、受け入れました。

 病むひとには、癒しを与えた。孤独な人とは、友となった。人生につまずき、人から嫌われ、希望を失っている人に対しては、新しい希望の灯りを、ともしていったんです。イエス様の与える救いは、ただこころの中だけ、そうではありません! わたしたちの人生全体、生活の一コマ一コマが、救いの御手の中に置かれているんです。そこで主イエスは、人生全体に救いを約束するイザヤの言葉を呼んだ後、間を置かないで、

 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した…!(21節)

 こうおっしゃった。

 救い主であるわたしが、あなたがたに救いをもたらすんだ――。

 こうおっしゃったんです。

 救いを求めることに、臆病になってはいけません。遠慮がちに、ためらうようであっては、いけないんです。

 卑近なことを申しますが、わたしは神学生時代に、あまりお金がありませんでした。小さな財布があって、そこに入っている何千円かが、全財産である、そんな暮らしもありました。この時わたし祈ったんです。必要な生活費を与えてください。そうしたら与えられました。日々の生活、対人関係、就職や結婚、こころの救いと共に、生活の救いと導きを、祈り求めるんです。

 キリスト者でも、細かなことまで祈るのは依存的だ、このように考える方がいます。あるいは、それはご利益を求めているんじゃないだろうか。このように考えるひともいる。わたくしはこれは違うと思います。

 大きなことは祈ります。けれども、小さなことはなかなか祈らないんです。

 この態度はどうでしょう。神さまと、取引をすることにはならないでしょうか――。できるところは、自分でやりますから、できないところだけ助けてください――。主イエスは、わたしたちの助っ人ではありません。ヘルパーではないんです。わたしたちの人生の主。崇むべき、神の御子です。たしたち一人ひとりを、命がけで、愛しておられる方――。

 そうであれば、みこころを尋ねて、祈っていく。生活全体に、救いとお導きを求めて、祈っていくんです。かなえられたところ、かなえられなかったところがあります。わたしはそれでいいと思います。大切なのは、主に従っていくひと足ひと足の歩み――。祈り求める中で、一つひとつを祈り求め、聞いていく中で、あるときは応えられる、ある時は応えられなかった――。そいうことを通してわたしたちは、主イエスのみあとに導かれていくんです。

 物語の後半は、主イエスと、ナザレの人びととの、対立を伝えています。前半では、主イエスの言葉を聴いて、大いに喜ぶんです。ところが後半では、同じ人びとがガラリと態度を変えてしまう。ターニングポイントになっているのは、今日読んだ個所の次の節、22節の言葉です。「この人はヨセフの子ではないか。」見物人になっているんです。“なかなかいいこと言うじゃないか。これから何が始まるんだ。こいつはヨセフのせがれだぞ…!?”。人びとは、福音の当事者にならなかった。見物人になっていた。だから主イエスとの間にずれが起こってくるんです。

 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 あなたの人生全体を救う方が、主イエスです。この方が、目の前に立っている。わたしのひと足ひと足の歩みを、献げていくんです。問いつつ応えていくんです。主イエスが、わたしたちを、今日も、招いてくださっているのです。

 祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる御神。あなたはわたしたちの現実、すべてを、知っておられる方です。そして、わたしたち一人ひとりを、丸ごと、愛してくださる方です。感謝致します。あなたの愛に応え、こころの信頼を献げ、主イエスのみあとに従う、わたしたちとさせてください。開かれている、福音を、他人事とはせず、自分自身のものとして、何度も何度も受け取っていく、わたしたちとさせてください。

 救い主、イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。