今週の説教

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《今週の言葉》


 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
(ルカによる福音書 第21章28節)

身を起こし、頭を上げて生きよう


2021年11月28日 待降節第1主日(典礼色 紫)
福音書日課 ルカによる福音書
第21章25〜36節(『聖書』 新共同訳 152ページ )
讃美歌21 242(1節のみ)18


緊急事態宣言が解除されましたので、会堂に集うかたちでの「奏楽を伴う礼拝(式文を短縮・讃美歌は2曲ないし3曲)」を注意深く再開いたします。動画配信は継続いたします。どうか、くれぐれもご無理がないようにしてください。


 「心を高く上げよう。心を高く上げよう。」

 すでに、みことばの歌として、賛美を歌いました。この讃美歌は、わたくしはとても好きで、愛唱讃美歌でもあります。わたくしだけではないでしょう。比較的新しい讃美歌ですけれども、ほんとうに多くの人々に、愛唱されている讃美歌だと思います。ほとんど空で歌える方も、少なくないと思います。

 「心を高く上げよう。心を高く上げよう。」

 なぜ、この歌が愛されるのかというと、わたしたちの心がすぐにうつむいてしまうからだと思います。すぐに、うなだれてしまう思いを抱えているからだと思います。けれども私たちは独りではありません。ここに来れば、「心を高く上げよう」と、共に歌う仲間がおります。一人でも歌える歌かもしれませんけれども、教会で、一緒に歌ってこそまた力を持つ歌ではないかと思います。自分の心に言い聞かせるように、しかしそれだけではなくここに集まる仲間の心を励ますような思いで、あるいは、他の人たちの歌声に励まされるような思いで、「心を高く上げよう。心を高く上げよう。」と。それが、いつの間にか自分の心になってくる。またそれが教会の祈りになってくる。

 なぜ、こころを高く上げるのか――。主イエスを愛しているからです。何といっても主イエスご自身がわたしたちの心を励ますように引き上げるように、まるで今ここで私たちの先頭に立つようにして、「心を高く上げよう。心を高く上げよう。」と、歌っていてくださるような、気も致します。

 ある方の説教集に、『主が、新しい歌を』(加藤さゆり牧師)という説教集があります。この「主が、新しい歌を」という、書名について、その説教集を編纂した先生が、こういうことを書いておられます。「主に、新しい歌を」そういうタイトルにはならないんだ。わたしたちが主に新しい歌を歌おう、そういうおもいでこの説教集が編まれたのではない。そうではなくて、主が新しい歌を、わたしたちに与えてくださる。

 すぐに、うつむいてしまう私たちの心をしかし主が引き上げてくださるように、いつも新しい歌を与えてくださる。たとえば今うたいました讃美歌などはそのイエス様が与えてくださる歌の、最たるものかもしれません。自分で自分の心をひき上げるなんてそんなことはできません。けれどもこころを高く上げよう、そういう歌を与えてくださるのは主です。

 今朝は、それこそ皆さんの心に不思議な印象を残すかもしれない、そういう聖書の言葉を呼びました。しかしその28節にこういう言葉がありました。

 このようなことが起こり始めたら、身を起こして、頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。

 身を起こして、頭を上げなさい。

 あなたがたの姿勢は、そのようなものであるべきだ、と言われる。すぐに、霧のような憂い、闇のような恐れに、取りつかれてしまうわたしたちであることを主イエスはよく、ご存じだったのだと思います。すぐに心が固く、小さく、閉じたものになってしまいます。けれどもその心を開き、高く引き上げるようにして、「身を起こして頭を上げなさい…!」。主イエスが声をかけてくださいます。

 そのようにしてこの教会の歩みが作られます。教会(幼稚園)というのは、身を起こし、頭を上げて、共に歩む、集まりです。たとえ世界中の人たちが首をうなだれているようなときでさえ、しっかりと身を起こし、頭を上げて――。もしかしたらそこでほかの人たちが問うかもしれない。なぜあの人たちはあんなにしっかりと頭を上げているんだろう。なぜあの人たちの心は、しっかりと高くあがっているんだろう…。そのようにして教会の歩みがつくられてまいります。繰り返しますがこれは、一人ひとりの歩み、というよりは、わたしたちが教会で知る恵みであると、わたしは思います。

 新約聖書のヨハネによる福音書の、第21章に、こういう記事があります。今日読みましたルカによる福音書の言葉をおそらく一番近くで聞いていたに違いない弟子のペトロ、またペトロをはじめとする七人の弟子たちが、およみがえりの主イエスのご訪問を受けるという記事です。

 これはどういうわけだかわたしも今でもよくわからないのですが、ペトロをはじめその七人の弟子たちはいつの間にか生まれ故郷であるガリラヤに戻り、かつての生業である漁師の仕事をしていた。けれども、その日は、徹夜で働いたけれども、小魚一匹取れなかった。それこそ、やれやれ参った…というような思いで、首をうなだれるようなところであったでしょう。そしたら、舟の上から遥か岸の方に、何かが立っているのが見える。

 その舟から岸までの距離は100メートルであったと言いますから、大きな声だったでしょう。岸のほうから、自分たちの方へ呼びかけている人がいる。いったい誰だろう…と。そのひとは「舟の右側に網を下ろせ」という。その通りにしてみると、とんでもない量数の魚が取れた。というときに一人の弟子がペトロに言いました。「あれは主だ…!」。びっくりしたペトロは湖に飛び込んで、その100メートルという距離をバシャバシャと泳いで、主のもとに向かいます。いかにも慌て者のペトロらしいというところがあるかもしれませんけれども、他の弟子たちはもう少し落ち着いておりまして、きちんと舟に乗って岸に戻った。そして岸に着いたら、すでに主イエスは朝ご飯を用意していてくださった。一緒にその朝食をいただいた、という記事です。

 なぜ主イエスはわざわざペトロを訪ねてくださったのか――。明らかにペトロのこころが、うなだれていた、うつむいていたからだと思います。その心を高く上げさせるために、主が訪ねてくださった。ところで、もしかしたらこのヨハネによる福音書の第21章の記事は、もしかしたらこんなに丁寧にわたしが紹介しなくても皆さんよくご存じであるかと思います。
しかし私は、この聖書の記事について、一つ、たいへん面白いと思うし、今でもよくわからないなぁと思うところがあります。

 その物語の最後に、「イエスが死者の中から復活したのち、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」って言うんです。

 「これでもう三度目である」。少し、不思議な思いがしないでしょうか。主が十字架につけられて殺されてしまって、もうそれきりだ、すっかり絶望していた弟子たちがガリラヤに戻り漁をしていたら、電撃的な主イエスのご訪問を受けたって言うんじゃないのです。もう三度目なんです。もう少なくとも二度は主イエスにあっている。それにしてはずいぶんだなぁと思います。三回目くらいになったらもう湖に飛び込むなんてことはしないでもう少し落ち着いたらどうか、とも思いますけれども、でも改めて思う。じゃあこの私は何度イエス様に会ったのか――。

 一度や二度じゃないと思います。三度でも何度でも、甦りの主がこのわたしを訪ねてくださる。そうなってくると、だんだんと感激も薄れてくるってことになるのか――。そんなことはないと思います。それだけに有り難いのは、何度でもわあしたちを訪ねてくださる主の恵みです。性懲りもなく何度でも、恐れのとりこになり、不安に襲われ、思い煩いのとりこになり、すぐにこころがうつむいてしまう私たちのことを、しかし主が何度でも訪ねてくださる。その心を、高く上げさせてくださる。そうしてくださるのです。

 そういう意味ではこのヨハネによる福音書第21章の物語って言うのはただペトロだけの物語って言うのではなくて、のちの教会の物語を、幼稚園の働きを、反映したものだと、思います。私たち物語がここに記されている。わたしたちもよく知っていると思います。「夜通し働いたのに無駄だった」。こんなに一生懸命やっているのに人に誤解されるだけだった。いったい自分何をしているんだろう。いったい自分何のために生きているんだろう…。というときに、

 あれは主だ…!

 まさしく身を起こし、頭を上げて、知るべきことがある。主は生きておられるのです。わたしたちに対する愛を、どんなときも、貫いてくださるのです。そしてわたしたちもこのお方を愛している。

 今日、読みましたのは、しかしヨハネによる福音書の第21章ではなくて、ルカによる福音書の、第21章です。ここで主イエスが弟子たちに丁寧に語りかけておられることもそのことに尽きます。わたくしはそう思う。

 わたしは再び必ずあなたがたのところに来る。だから恐れるな…!って言うんです。だから身を起こし、頭を上げなさいって言う。

 ルカによる福音書を、直接筆を執って書いたルカという人は、もちろん、この世のものとも思えない、悲しみ苦しみをよく知っていた人だと思います。だからこそしかし、渾身の力を込めて、書いたと思います。「頭を上げよう、身を起こそう、心を高く上げよう…。」「わたしたちはこのお方に愛されているじゃないか。わたしたちはこのお方を愛しているじゃないか…!」

 このお方は、生きておられるのだ。繰り返し何度でもわたしたちを訪ねてくださるお方なのだ。わたしたちは、その主イエスがもう一度、目に見える姿で来てくださる日を、待ち続けているのです。身を起こし、頭を上げて――。

 いろんなことで、うなだれてしまうわたしたちです。しかし、主が新しい歌を与えてくださる。そのために与えられた、教会、幼稚園、その教会で語られた、この福音書の言葉です。

 今主イエスご自身がどんなに深い思いを込めて、わたしたちに語りかけてくださるか――。身を起こし、頭を高く上げなさい…! その主の、語りかけを聴きながら、今わたしたちも、このお方に対する、愛を新しくさせていただくのです。

 この教会・幼稚園の歩みが、そのような意味で、なお確かなものとなるように、わたしたちの祈りと望みを新しくしたいと願います。一人でつくる歩みではありません。共に励まし合いながら、共に慰めの言葉を告げ合いながらつくる歩みです。そしてそのようなわたしたちの姿を見て、気づく人は気づくと思います。

 なぜあの人たちは、身を起こして生きているのだろう…!

 主が与えてくださる教会と幼稚園の姿勢を、今感謝を持って受けとめたいと、こころから願います。

 祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる御神。わたしたちは、あなたを愛しております。すぐに心ふさがれてしまうわたしたちですけれども、そのこころをあなたが引き上げてくださいます。どうぞ今確信をもって、あなたに対する、感謝と賛美の歌を、ささげることができますように。つまづいている者、立ち上がれなくなっている者がおりましたら、どうぞあなたご自身が語りかけ、そのこころを高く上げて下さますように。互いに励まし合いながら、何よりあなたに導かれて、この教会・幼稚園の歩みをつくることができますように。主

 主イエス・キリストのみ名によって祈り、願います。