今週の説教

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《今週の言葉》


 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。
( ヨハネによる福音書第15章15節 )


わたしたちはイエスの友


2021年5月9日 復活節第6主日(典礼色 白)
福音書日課 ヨハネによる福音書
第15章9〜17節(日本聖書協会 『聖書』 新共同訳 198ページ)
讃美歌21 512(主よ、献げます)

新型コロナウィルス感染拡大防止に伴う緊急事態宣言発令期間中は主日礼拝の公開を中止。牧師による礼拝動画は配信中。「You Tubeチャンネル」にて「○月○日礼拝天王寺」と検索。

 長い、主イエスの、地上を去られる前の、弟子たちに与えられた御言葉が、続いて、記されています。その中でも特に、この第15章11〜17節は、多くの人びとが、長い間、こころを込めて読み、喜びに、あふれてきた、み言葉です。

 特にここには、11節に、“あなたがたの喜びが、満たされるため”ということばが、記されています。

 わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 わたしの喜びが、満たされるとは、おっしゃいませんでした。私どもの、喜びです。私が喜べる、“これは、わたしの喜びなんだ…” しかも、喜びが、こころの片隅に、残っているとか、そこだけは、喜びがあるというようなことではなくて、喜びが満ちたときには、私どもの、全存在が、“喜びの存在”と呼ばれるに、値するほどのものになる――。

 一所懸命話をしてくださって、目の前に、ご自分の十字架が見えて、いるところで、主イエスが“これらのこと”を――

 わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝だ…と、わたしにつながっていれば、必ず豊かに実を結ぶ。

 そのようなことをお語りになったことは、あなたがたの喜びが、満ちてくる… そのためだ。

 ここにおりました弟子たち、弟子たちからこの主のお言葉を伝えられた者たち――。私どもも、含まれる。世々、教会に生きてきたキリスト者と呼ばれる者が、何度、この御言葉を、ありがたいこととして、聴き直したことでしょうか。

 “これらのこと”――。そこに、含まれているひとつは、愛の、掟です。この、すぐ前の10節では、

 父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている。

 そうすれば、あなたがたの喜びが満たされる… そう読むこともできます。

 「掟」ということばが、ここに記されています。他のところにも、パウロの手紙にも出て参りますが、この、「掟」という、漢字で書きますことばが、聖書の翻訳として、新しく登場してきたのは、私どもプロテスタントの人間にとっては、新共同訳が、最初です。
 
 一緒にこの聖書の翻訳をした、カトリックの方たちは、「掟」ということばを使い慣れていたようです。私どもプロテスタントの者は、あまり使ったことがありません。実際に新共同訳で、この漢字を見ましたときに、私は始め、ちょっと、自分の気持ちに、逆らう、文字であるように、思いました。何故かというと、“掟”という文字に、“定め”ということばがありますが、これは、上から定められたもの、権威をもって定められたもの――。

 時代劇を見ると、町の辻辻に、“高札(こうさつ)”。高い、板が掲げられて、そこに、大きく“掟”と、記されている。“これこれのことをしてはならない”。“キリシタンを信じてはならない”というようなことが書いてあったり、あるいは場合によっては、“これこれの貢物を出せ…!”などということにもなるかもしれない。いずれにせよ、“頭が挙がらないお上の掟”などというようなものを、どうしても想像してしまいます。 

 掟――。それは外から、私どもが強いられることであるかのように思うんです。確かにその面があります。この掟は、17節のことばで言うと、わたしの“命令”とおっしゃっていますが、

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である

 主イエスのご命令です。私どもが考え出したことではない。私どもが喜んでやろうと企てたことではない。これは主イエスのご命令だから、父なる神が定められたことだから、守らなければならない。

 一般に申しますと、このような掟というのが、私どもに、喜びをもたらすわけではないと思います。外に、高〜い高札が掲げられていて、掟が記されていても、それは、私どものこころの扉を押し開いて、中にまで届くようなものではないかもしれない。実際に高札が立っている通りから、自分の家に入り込むって言うと、“ここじゃぁ、お上の言うことなんか…”と言って、無視されることも起こるかもしれない。

 しかし、主イエスの掟は、喜びの掟です。私どもは、罪を犯し、愛を失ってしまった人間です。その、私どものこころの世界に、外から、神ご自身の手によって、主イエス・キリストという、喜びと愛の存在によって、

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 ――と、新しく、書き込んでくださいました。

 友のためにいのちを捨てること。これ以上に大きな愛はない。

 主イエスは実際に私どものためにいのちを棄ててくださいました。そして私どもに、“これ以上に大きな愛はないのだけれども、その愛をあなたがたも生きることができるのだ…!”と、教えてくださったし、それを実行する、力を与えてくださいました。

 多くの人びとの慰めになった言葉が、また14節にも記されています。

 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 もう一度、15節の終わりにも、

 わたしは、あなたがたを友と呼ぶ。

 間にこう記されています。

 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。

 奴隷というのは、言いつけられたことをすればよいのであって、今自分がしていることは何のためか。主人が教えてもくれないし、こっちは尋ねることも許されない。なら言われたことをやればよい。“僕”ということばは、伝道者パウロが、喜んで使った言葉です。

 キリスト・イエスの僕、パウロ――。

と名乗りました。その場合にも、奴隷に似て、主である主イエス・キリストに、徹底的にお仕えする意味があったと思いますが、しかし、そのとき、パウロは「私は僕であって、主イエスの友ではないのだ」などと、考えはしなかったと思います。

 “友である、僕”なんです。

 私どもがみなそのように、されているのです。

 素朴な思いから言うと、イエス・キリストは私どもの“主”なのであって、友達だなどというのではない、友達だと、肩を並べることができるんです。“そんなめっそうもない…” と考えてしまいます。

 しかし、この“キリストの友”という――主イエスの、私どもに対する愛の最も美しい表現というべきものが、それこそ、世に生きたキリスト者たちを、喜ばせて参りました。

 日本の、優れた、第一世代の伝道者でありました植村正久という牧師は、この“友 イエス”ということばを、とても、喜んで大切にしました。

 16世紀、“アビラのテレジア”という、カルメル修道会という修道会の、“復興の祖”と呼ばれるようになりました修道女がいます。植村牧師はこのテレジアのことを愛しました。何故かって言うと、「テレジアが、主イエスを友と呼ぶことを教えてくれた」――。この御言葉と並んでです。

 実際にいつも 祈りをするときに、“私の友、イエスよ…”と呼んで祈りをしたし、植村牧師も、そういう祈りができることを喜んだ。

 実際に私どもも、ただ、“私どもの主 イエス・キリスト”と呼ぶだけではなくて、

“ 主であり友であるイエス・キリストよ…

 と呼んで、祈りをすることを、してみるとよいのかもしれません。

 友――。英語で“フレンド”。この“フレンド”という英語のことばのなかに“フリー(自由)”という意味が”込められているのではないかという説明を、読んだことがあります。何故かと申しますと、友達になるということは、まったく自由なことなんです。親と子っていうのは自分で選ぶことはできないのです。兄弟であるっていうことも自分で決めるわけにはいかない。自分の意志でなく定められていることです。

 けれども学び舎に入る――わたしの息子も今、毎朝ドキドキしながら進学した中学校に行っていますけれども、そこで同級生、また先輩のお兄さん、お姉さんと出会ってゆく――あるいは会社に入る。でそこで、同僚が与えられる、上司が与えられますけれども、上司や同僚が、皆友達になるわけではありません。その中から、友が生まれるのです。お互いに、自分を、特別に愛してくれる、また自分も特別に愛する友情をもって結ばれる友だと、選ぶんです。自由に選ぶんです。

 そして選びますと、学び舎を巣立ち、その会社を辞めてからでも、学校や会社でのつながりはなくなっても、死ぬまで、親しい友人であることができます。

 この“友”というのは、「選ぶことができる」という、そういう意味がある。主イエスも、そのことをおっしゃたのだろうか。

 直ぐ続いて、

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ…

 と言われました。

 なるほど友は自由に選ぶことができるかもしれません。しかし、私どもが、主イエスと友であるのは、私が、あの主イエスを友だちにしようと、選んだのではなくて、主イエスのほうで、私どもを、

 あなたがたは、わたしの友だ…

 と、呼んでくださったんです。

 あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

面白い表現です。今のようなつながりで読んでいくと、私どもが主イエスの友であるのは、主イエスに、“私の友となれ…!”と任命された。“任命”――。任務を与えられることです。私どもが主イエスを友と呼ぶかどうかっていうことは、私どもの自由になるということじゃなくて、主イエスから戴いた、務めだというのです。

 ありがたい、ことだと思います。

 ルーテル教会が日本に入る前、ヘボン夫妻によって伝道された、日本基督教会という、当時の日本で一番大きな、日本で最初のプロテスタント教会の教派がありました。――私が青少年時代に信仰を育まれ、過ごしたグループですけれども――そこの教会の中で、“主イエスの友会”というのをつくって、活動をしていたひとたちがいます。中でも中心的な働きをしたのは、賀川豊彦という牧師です。この牧師は、伝道を熱心にし、また実に多くの、社会事業施設をつくりました。東京周辺に、そして神戸の地に、これも賀川先生がおつくりになった、これも賀川先生がその創設にかかわっている、という愛のわざがいくつもあります。

 “イエスの友会”――。私たちは主イエスの友だ。その特権を楽しんで、時々集まって友情を交わすなどということではなくて、主イエスの友としての、使命を与えられた。だから、その使命に勤しもう…という集団でありました。

 しかし考えてみると、言うまでもないことですけれども、キリスト教会というのが、どこにありましても、キリストの教会である以上、皆、主イエスの友会なのです。洗礼を受けて教会員になりますと、主イエスの、友達になるんです。

 “わが友、イエスよ…

 と、祈りをすることができるようになるのです。そしてそこで、

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 という、掟を、こころに、刻んで戴くのです。

 主イエスは、私どもを選ぶと共に、私どもを友とするために、ご自分の命を、捨ててくださいました。そのことによって私どもは、主イエスの友となることができ、そしてまたそれゆえに、お互いに友であることができます。

 今、この場で、私が皆さんに(動画を通して)語りかけていますけれども、これもまた“友情による説教”だと、言ってもよいと思います。友同士として、言葉を交わし合っているのです。そして、共に祈りをすることができるのです。そのとき、いま、この、礼拝を通しても、私どもの喜びが、満ち溢れて参ります。私たちはみな、違ったところで生きています。しかし、与えられている主イエスのご命令は、変わることがありません。

 互いに、愛し合いなさい…

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

 これが、“主 イエスの友として”――私どもが深く、知ることがゆるされている、父なる神と、主イエスのみこころにある、ご計画なのです。

 祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる御神。大きな、深い御言葉を聴くことができました。私どもはみんな、主イエスの友です。この光栄を喜び、喜び充ち溢れる、愛の歩みに生きることができますように。私どもの主、そして私どもの友、主 イエス・キリストによって祈ります。