今週の説教

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2022年8月7日 平和主日

《説教題》

「平和」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 今日は平和主日としてご一緒に礼拝を守っています。私たちは、唯一の被爆国として先の世界大戦の傷を負っています。しかし同時に、アジア諸国への支配によって現在もたくさんの方々へ傷を負わせていますし、禍根を残しています。また、今年は2月から続くウクライナとロシアによる戦争状態を日々目の当たりにしています。終わりの見えない戦況に当地の人々はもちろんのこと、たくさんの人々が不安の中に在ります。その中には、故郷を追われて近隣諸国に避難している方々もたくさん居られます。

 そのような中で平和を覚える礼拝を共にし、与えられている福音はキリストが愛を教えられた御ことばです。
 
私たちが平和に生きる上で欠かせないものとして「愛」をイエスは示されました。
 愛は私たちと神を繋ぐ大切な事柄です。そして、これは一方通行ではなく、互いに交わり合うことによって活き活きと活動し、喜びと恵み、平安で満たします。

 この愛によって結ばれている神との関係ですが、私たちは本来ならばこの関係の中に生きている者ではありません。しかもこの関係を断ち切ったのは人間自身でした。
 神の御ことばに聴き従うことによって私たちは平和を約束されていましたが、自分の私利私欲を求めるあまりに、他者を蔑ろにし、傷つけるばかりでなく、神をも蔑ろにし、神の御ことばに聴き従うのではなく、自分の思い、言葉、心に聴き従っていったのです。

 それはアダムとエバの堕罪の出来事は勿論のこと、最初の殺人の出来事であるカインとアベルの時にも、そして、アブラハムに子どもがサラとの間に与えられるという御使いの言葉を聞いた時のサラの反応においても、ダビデがバト・シェバを欲のために床を共にし、夫を最前線に送った時にも挙げればキリがありませんが、聖書のいたる所でわれわれ人間が神に反し、神の御ことばを聴かず、顧みることなく生きている様を伝えています。

 そして人は死の恐れに憑りつかれ、孤独に陥るのです。神との関係が断たれていることに気が付かされ、絶望し、自分の命が孤独の内にある状態に自ら陥っているのです。本当に人間は愚かです。そうした命の孤独を抱えて初めて神の存在を知ることができる。まことに自分の過ちを見つめ、悔い改めるようになる。何度も申し上げますが、本当に人間は愚かです。

 そうして気づかされることは、孤独が平和を破壊するのです。孤独の内にある者は孤独です。昨日は広島に、また長崎には9日にそれぞれ原爆が投下され多くの人々が一瞬にして死んでいきました。そして、このことによって現在も多くの方が原爆後遺症などで苦しみを覚えています。直後の生活においては、被爆者ということであらぬ噂をされたり、婚姻破棄をされたりと自分のせいでは無いのにも拘わらず人間の尊厳が傷つけられ、たくさんの人々が孤独の内に落とされ生きねばなりませんでした。

 同時に私たちはアジア諸国に対してもたくさんの人々に痛みを負わせ、傷つけてきました。この禍根は現在進行形で続いています。沖縄についても同様です。一昨年に沖縄に行き、辺野古の建設現場、普天間、嘉手納基地を見てきましたが、街の大半を占有し、分断している様は異常な光景でした。また軍用機が空を我が物顔で行き来する光景も異様でした。また基地周辺では地下水が汚染され、基準の何十倍もの毒性物質が検出されました。戦後77年を数えながら、日本の事がらだけでも内外に多くの問題を抱えたままに人間のいのちを脅かしています。

 その結果、人間のいのちは「寂しさ」を覚えます。自分のいのちが誰からも顧みられず蔑ろにされているという思いに満たされながら生きねばならなくなってしまうのです。自分だけがこの苦しみ、悲しみ、痛みを負っているかのような思いに満たされてしまう。そうして、心が「寂しさ」「孤独」に陥ってしまう。本当は人間同士、そして神とそれぞれが相互に慈しみ合い、愛し合い、励まし合いながらでしかいのちは平安に満たされないのに、争いということがらによってそれはたちまちバラバラになって相手を憎しみ、傷つけ、殺してしまうのです。

 事実、私たちは神とバラバラになってしまい、御子イエスを憎しみ、傷つけ、殺してしまいました。神との関係がそうであるならば、人間同士も同様です。人間は寂しさ、孤独のゆえに互いのいのちの尊厳を脅かしてしまうのです。いま私たちが見聞きする不和の根元には「寂しさ」「孤独」があるのです。

 そのような私たちに対して、神はあなたが謝ったら許して元の関係に戻すとは言わないのです。ことは単純です。神がわたしを愛してくださっている。この一点です。つまり、あなたの寂しさ、孤独の淵に私は行って、共に立つ、そればかりかあなたの痛み、悲しみ、傷を私が代わりに負うと語り掛け、それを行動を通して顕してくださったのです。

 それが十字架の死と復活です。私たちが寂しさの故に他者を憎しみ、傷つけ、殺してしまう。それは罪です。しかし、この罪を神ご自身が負ってくださることによりこの破れ、不和を克服してくださったのです。しかもそれはイエスただお独りの十字架の死と復活によって、このイエスの御業の恵みに私たち一人ひとりが与かり、神と共に生きるという確信、喜び、平安をもたらすのです。

 この愛に留まることにより私たちは神と生涯結ばれ続け、平和に生きることがかないます。そして、この神の愛に留まることにより、他者との関りにおいても自ずと神の愛によって結ばれていることを悟らせ、憎しみ、傷つけ、殺すことの愚かさ、罪深さを気づかせてくださるのです。

 「9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」(詩編85:9)と詩編で讃美されているように、私たちはキリストの十字架の死と復活を通して、神が私たちに平和を告げ知らせてくださる御声を聴きます。あなたはわたしの愛する子という優しい神の語り掛けを聴きます。

 この愛に留まることによって私たちの世界に平和は訪れるのです。槍や剣による平和ではなく、神の愛による平和こそが真の平和です。神の愛が唯一私たちを平和に満たします。ほかの何かによるのではなく、神の愛を武具として歩んでいきましょう。時としてそれは愚かで弱々しく見えることでしょう。それは、イエスが十字架を負ったときの姿に示されています。十字架の場面、そこに平和があるとは思えませんでした。しかしそこには確かな神の愛がありました。だからこそ、私たちは神と結ばれている恵みと平和を十字架の死と復活に見ます。

 神の愛がすべての事がらを克服し、和解へと導き、神と一つとし、隣人と一つとします。ですから世には愚かであっても、徹頭徹尾この神の愛にとどまり、互いに愛し合うことによって現実となる平和を目指して歩んでいきましょう。そして、何よりも私たち一人ひとりがこの神の愛によって寂しさも孤独も克服され、神と共に在る喜びがあります。神の愛に留まることによってあらゆる寂しさ、孤独が克服された私たち自身の喜びの讃美を共に力強く世に響き渡らせてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。