今週の説教

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《今週の言葉》


 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
( マルコによる福音書第4章35節 )


眠る主イエスを乗せて


2021年6月20日 聖霊降臨語第4主日(典礼色 緑)
福音書日課 マルコによる福音書
第4章35〜41節(日本聖書協会 『聖書』 新共同訳 68ページ)
讃美歌21 462(はてしも知られぬ)

新型コロナウィルス感染拡大防止に伴う緊急事態宣言発令期間中は主日礼拝の公開を中止。牧師による礼拝動画は配信中。「You Tubeチャンネル」にて「○月○日礼拝天王寺」と検索。
6月27日以降のことは、「週報」のページをご覧ください


 私どもの毎日は、繰り返しの毎日のようですけれども、新鮮な時が訪れる一瞬というものがあります。今はもう6月の半ばですけれども、4月から新しい生活へと、歩み出したひとがいるかもしれない。たとえそうでなくとも、私どもは思い出すことができます。
中学生から高校生へ、あるいは高校生から大学へ、大学から、新しい場所へ、新しい仕事へ――。その場所に立った時、新鮮なときが訪れました。

 私は――私事ですけれども――44歳になって――45歳への階段を上っているのですけれども――歯もずいぶん抜けて、頭も染めなければならないほど白髪交じりに、だんだんなってきましたけれども、見えないところに内臓脂肪もついてきましたけれども、すぐに、あの当時、15歳の、あるいは18歳の、あるいは23歳の、自分の姿を想い起こすことができます。あの時一緒にいた仲間たち、若いままの仲間たちの姿を想い起こすことができます。そして、一緒に新しい場所へ、あるいはそれぞれ別々の新しい場所へ、向かうときの姿を思い起こすことができる。その風景を思い出すと共に、重なり合いながら、響いてくる声があります。

 向こう岸に渡ろう――!

 今朝、こころを傾ける、マルコ福音書第4章35節以下に記されている、主 イエスのお言葉です。

 主イエスはおっしゃった。

 向こう岸に渡ろう――!

 主イエスは、新しい旅、冒険の旅へと誘われるお方です。

 向こう岸に渡ろう――! 旅を続けよう。新しい場所へ行こう。一緒に行こう…!

 最初のその言葉を聴いた主 イエスの弟子たちの間にも、新鮮な時が訪れたに違いありません。そもそも、主 イエスと過ごす毎日というのは新鮮な時の連続です。見たことも、聞いたこともないような新しい教えと業に触れることができるのです。しかし、弟子たちにとりまして、ここに至るまでは、彼らの故郷(ふるさと)、歩き慣れた場所を舞台にしてのことでした。しかし、ある日主イエスはおっしゃった。

 向こう岸に渡ろう――!

 いよいよ、新しい旅が始まろうとしているのです。ガリラヤ湖の向こう岸――。それは、第5章を読みますと、“ゲラサ人の地方”と書いてある。異邦人の土地です。自分たちの信仰とは別の信仰を持った人たちの土地です。初めて、足を踏み入れる土地です。

 第4章の34節で、主イエスの譬えによる、説教が終わりました。その主のお声を、舟に乗せて、一緒に向こう岸へ渡るのです。

 向こう岸に渡ろう――!

 弟子たちは、主を舟に乗せて、向こう岸へと漕ぎ出します。実際に、読んでみます。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


 「その日の夕方になって」と始まります。この舟出は、夕方の舟出でした。舟を漕げば漕ぐほど、闇が深くなる。夜の、舟出です。けれども、弟子たちの内、ペトロ アンデレ ヤコブ ヨハネ――。少なくともこの四人は漁師でした。このガリラヤ湖を、舞台に、漁を続けていたひとたちだった。久しぶりの、沖へ漕ぎ出す舟出だったかもしれない。漁と言うのは暗闇の中でするものです。何にも恐れることはない筈です。彼らは、この弟子たちは舟のことについては専門家なのです。これまでは、自分たち弟子たちは、主イエスの話に耳を傾けるだけだった。しかし、“舟を漕ぐのは先生の仕事ではない。ここは、俺たちの出番だ、俺たちの仕事だ…!” そして、張り切ったかもしれません。張り切って舟を漕いだ。その途中、きっと主イエスはお疲れになったのでしょう。闇が濃くなるうちに、うとうとなさる。そして、お眠りになった。

 「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」と書いてある。もしかしたら、主イエスは、いつも枕を持参なさっていたのか。そんな筈はありません。きっと座布団を用意したんでしょう。あるいは腕枕をしながら、だんだん、目を閉じて行く主イエスを見て、弟子たちの一人が、何か小さなクッションのようなものを用意したのかもしれません。“先生どうぞゆっくりお休みください…。ここは私たちが、俺たちが、十分に知っている仕事だ。俺に任せとけ…!”

 ところがそこに、風が吹き始めます。その風はだんだんだんだん激しくなる。激しい突風になります。波が荒れます。どうせいつものことが始まったと、思っていたかもしれません。しかし、風の激しさは止まるところを知らない。どんどんどんどん強くなる。波が荒れます。舟は波をかぶる。水浸しになってしまう。自分たち、漁師として、専門家として、その知識と力の限界にきたと思い始める。

 大きな怖れに取りつかれます。このままでは沈んでしまう…! それなのに、主イエスのほうを見てみると、主は、一向に目を覚まされる気配がありません。ぐうぐうぐうぐう寝ている。舟は、波に揉まれるようですのに、主は一向に目を覚まさない。その眠る姿がむしろ不気味に思えたかもしれない。そして弟子たちは思わず叫ぶのです。

 先生、わたしたちが溺れても構わないのですか…!

 しかしそのとき、主イエスは起き上がる。ようやく起き上がる。そこで、「黙れ、沈まれ…!」と叱る。その叱り声に、風は凪になり、湖の水も静かになった――。

 ここから、新しいマルコによる福音書の区分に入ります。先週は、たとえ話を聴きました。第四章の前半には、四つの譬話が並んでいました。そして、今朝のここの部分から、三つの奇跡物語が続きます。四つのたとえ話の後に、三つの奇跡物語。この奇跡物語というのはどれも、破格の物語だと思う。

 ただ、この奇跡物語を読み始めて行く最初に、どうしてもご一緒に、こころに留めておきたい主イエスの言葉があります。それは、譬え話の中で、主イエスが幾度も繰り返されていた言葉です。聞く耳のある者は聞きなさい。あるいは、何を聞いているかに、注意しなさい。

 わたしは、この主イエスの言葉は、たとえ話についてだけではありません。それに続く、これから読む、奇跡物語を一体どのように読んで行ったらよいか、何を聞いたらよいか、何を聴き取ったらよいか――。私どもの信仰について、問われているように思う。

 たとえば、こういう奇跡物語を読みます時に、このように、話をする人の話を聴いたことがありますし、そういう文章も読んだことがある。ガリラヤ湖、というのは地形の関係で、突然湖に風が吹き込むんだそうです。急に、突風が吹く、湖が荒れまくる。ところが、それは一時的なことでパタッと止んでしまう。そういう気象条件を持つ湖なんだそうです。そういう風に語りながらどうするか。たまたま主イエスが「黙れ、沈まれ…!」おっしゃった時に、その気象条件がぴったりと一致したと言うのです。これ私は思う。何とつまらない読み方かと――。

 第一、このペトロたちは、漁師、ベテランです。そんなことくらい分かるでしょう。少し待てば、おさまる…。もしもその範囲の嵐だったらば、彼らはこんなに恐れる必要はない。あるいはこのように、奇跡を説明して見せるひと、そういう説明はいくらでもあります。この後、五章に出てくる“ゲラサのひと”についてもそうです。彼は、急に正気に戻る。どうしてだろうか――。それは、二千匹ほどの豚が、崖を下って湖になだれ込む――。その音を聞いてショックを受けた。ショック療法だと言うのです。私はこれも、何とつまらない読み方だろうかと思う――。

 そのようにして、奇跡について、合理的な説明をして見せようとする。
 
 あるいは、逆の読み方もあります。とにかく主イエスは神の子なんだから、このように、風でさえ、湖でさえ、自然の諸力でさえも治めるそのような超能力のようなものがある。――私は思います。これもまた同様につまらないことだと思う。

 聖書に書いてあることはそんな退屈なものなんでしょうか。私は、奇跡物語と言うのはもしかすると、あまり誰かにあれこれ解説してもらわないほうがいいように思う。幾度でも、幾度でも情景を思い浮かべながら、こころのなかで繰り返したらよいのです。そのようにするときに、ここに語られていることが、まさしく、私どもの物語、私の物語であることがよぅく分かるようになる。

 向こう岸に渡ろう…!

 そう、私どもも、主イエスと一緒に旅に出たのです。主イエス・キリストに従うということは、それまで歩きなれた場所と違う場所へ、歩いていくことです。あるいは小さな小舟に主イエスをお乗せして、旅に出るのです。舟出する――。信仰を、いただいたからと言って、私どもは、新しい職業につくわけではない。新しい学校に進むわけではありません。それでも、私どもは小さな専門家として、主イエスと一緒に旅に出ます。そう、弟子たちが、漁師として専門家だったように、舟の専門家だったように、私ども、あなたも、小さな専門家です。お皿洗いの専門家もいるでしょうし、料理の専門家もいるでしょう。あるいは親として、子として、それぞれ自分が、ここだけはよくわかっているという場所を持っている筈です。ここは自分の場所――。

 その中でもう一度私ども、新しい旅に出るのです。主イエスと一緒に、愛の旅に出る。奉仕の旅に出るのです。

 ところが、私どもの生活はいつでも青空のもと、順風満帆という訳には行きません。仕事をしていても、頓挫することがある。病気になります。思わぬ家族の問題がやって来る。学生であれば、試験に失敗することもあるでしょう。小さな嵐がやって来ます。人から見たら小さな嵐かもしれない。しかし、実に自分にとっては激しい嵐のように思える。漕ぎ悩んでしまう。暗闇の中で独りぼっちになってしまう。一所懸命やってみるのです。一所懸命自分に起こる問題を何とか切り抜けようと思う。しかしうまく行きません。
 
 ふと傍らを見る。主イエスが、“向こう岸に渡ろう――!”と、言ったのは主イエスの筈なのに、その主イエスご自身は寝ておられる。寝ている主イエスならいてもいなくても同じです。尚更一所懸命やる。一所懸命やればやるほど、今度はまた主イエスの存在が目に入らなくなる。しかも傍らで主イエスは、いびきをかきながら寝ている。知らん顔をして寝ている。そこで、私ども苛立つ。

 先生、わたしたちが溺れても構わないのですか…! あなたが、あなたが一緒に歩もうと言われた旅ではないですか。あなたをお乗せして、私は新しい人生に出たはずではなかったですか。それなのにあなたは一向に何の力にもならない。私がこんなに一所懸命やっているのにあなたは眠っておられる。

 しかし、今度は逆に主イエスのほうが起ちあがりまして、叱りつけます。私どもを叱りつける。

 黙れ…沈まれ…!

 風に向かって、風を叱ったことばだと書いてあります。けれども、弟子たちにとりましては自分たちが叱られたように感じたに違いない。

 黙れ…沈まれ…!

 そして主イエスはおっしゃる。

 なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。

 主は、私どもに対して、主イエスに対する信頼を問うておられる。けれども思います。どうして主イエスは寝ておられるんだろうか――。私どもが、一所懸命 一所懸命生きているのに、まるで、主イエスの奇跡の力を見ることができない。主はちっとも知らん顔をしておられる。そのような生活が起こり得るのだろうか――。

 安心しているんです。主イエスはまだ、目を覚ますほどの、大きな出来事ではないと判断しておられるのです。まだ大丈夫なのです。小さな専門家である私どもに、主 ご自身が、ご自分を委ねておられる。主イエスがまだ、起き上がって風を鎮め、波を鎮めるほどの、大きな出来事ではないのです。

 私たち時々、主イエスのお姿が見えなくなることがあります。私たちの生活は、毎日が新鮮だというわけではない。主イエス・キリストに触れるというのは、毎日が新鮮になるということでしょう。新しい恵みに日々、出会うことができる。

 しかし、そんな日々がしょっちゅうやって来るわけではありません。昨日と同じ仕事を、今日休むと、明日、また、続けるのです。起き上がっても、なすべき仕事は同じ仕事です。問題の解決も、すぐに起こりません。眠っている間に、朝目が覚めたら、家にいた 夫が違う、妻が違う、違う子どもがいた。そして急にみんな優しくなった――。会社で待っている、山ほどの書類が、パァッと片付いていた。自分の、身体の痛みが、朝起きると“パァッ”と取り去られてきた、そんなことはあまりない。

 主イエスは寝ておられるのです。安心しているんです。私どもが、まだ、生きて行くことができる。まだ取り組んでいくことができる。そのことに信頼して、私どもの力に信頼して、すぐ傍(そば)で、寝息を立てておられる。

 主イエスはおっしゃいました。

 なぜ怖がるのか――。まだ信じないのか…! わたしが一緒にいるではないか。あなたの傍らで眠っているではないか。まだ信じないのか――。わたしが、あなたを贖ったことを。わたしが、あなたを用いていることを。わたしがあなたを、誰よりも愛していることを。そのことをまだ信じないのか――。

 主イエスは、舟の中におられます。あなたの舟の中におられる。私の舟の中に寝ておられる。なすべきわざを、なしてゆけばよい。今しばらく、悲しみが続くかも知れません。苦しみも続くかもしれない。しかし、寝ておられる、主イエスの傍らで、悲しんだらいい。苦しんだらいい。せっせせっせと、舟を漕いだらいい――。どんなときも、どこにあっても、愛の主、イエス・キリストは、わたしの、あなたの中におられます。

 祈りましょう。

 私どもの日々に、あなたが、主イエス・キリストをお与えくださっていることを、感謝を致します。どうぞ、主がいてくださるのですから、私どもが、どのような波にも溺れることがないことを、信頼させてください。主イエスが眠って、すぐ傍にいてくださることに、私どもが目覚めて、気づき続けて行くことができますように。どうか、主よ、あなたがお望みならば、今しばらく私どもの傍らでお休みください。しかしどうか主よ、私どもに、耐えきれない 試練をお与えにならないでください。

 主イエス・キリストによって祈ります。