今週の説教

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2025年7月20日 聖霊降臨後第6主日礼拝

「聖霊降臨後第6主日礼拝説教」

 聖書日課
 第一日課 第一日課 創世記 18章1節‐10節a
 第二日課 コロサイの信徒への手紙 1章15節‐28節
 福音書 ルカによる福音書 10章38節‐42節

【説教】
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 
 今日与えられている御言葉について見ていきますと、旧約のアブラハムと、福音におけるマルタは、同じように客人をもてなしていました。同じような場面に遭遇していますが、この両者にどのような違いがあるのでしょうか。そこに今日の福音が伝えようとしている神の御心が示されているのではないかと思います。

 客人が来訪したときにもてなしをすることは当然のことです。食事を準備し、風呂を焚き、寝室を整える。そして、楽しい交わりとなっていきます。色々と会話が弾み、思い出話をしたり、真面目な議論をしたりします。誰かをもてなすということは、相手が少しでも心地よいように配慮しますから、その人のことを思って行なうということが前提となります。

 そして、もてなすということは、その相手を自分のテリトリーに迎え入れることですから、その相手を受け入れるということを意味します。その視点から見ていくとアブラハムとマルタの態度に、わずかながら違いがあることに気が付かされるのではないでしょうか。
 確かに同じ客人をもてなすために給仕をしていましたが、アブラハムは三人の客人のそばに立って、この客人が語る言葉を逃すまいとしていました。一方でマルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と記されています。

 同じ行為をしていても、アブラハムにおいての中心は、神のみ言を逃すまいという心、信仰でした。正にそれは自分の思い、囚われていることに耳目、心を奪われずに神に向けていたということが伺えます。しかしながら、一方でマルタは、「せわしなく」していたのです。この言葉のギリシャ語は、「気を散らして」という意味があります。すなわち、その時、彼女は、アブラハムとは対照的に、神にではなく、正にイエスが指摘しているように「多くのことに思い悩み、心を乱している。」状態だったと言えます。

 本来であれば、ユダヤ教では、客人をもてなすことは名誉なことであり、義務でもありました。マルタのしていることは、決して咎められることではありません。奉仕をするということは、私たちにとっても大切なことです。ましてや、神ご自身が自分の許に来てくださっているのですから、尚更その奉仕にも気が入ると言えるでしょう。

 けれども、その奉仕によって、神を思うのではなく「気を散らして」しまうのであればそれは本末転倒とも言えます。ですから、主イエスがマルタの不満に対してお答えになった言葉は、彼女を咎めるものではなく、ことがらの本質について教えてくださり、悔い改めの機会を与えてくださったということではないかと思うのです。

 主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに不安を覚え、心が騒がされている」と言います。この「不安」、新共同訳聖書では「思い悩む」と訳されている言葉の解説には、分裂している状態とありました。つまり、この時のマルタは、確かにユダヤ教徒として相応しい態度をもって客人をもてなし、奉仕していましたが、その奉仕に気を取られる余りに、神から分裂していたということを示すのです。

 奉仕とは、神の御心が示すものです。教会にもたくさん奉仕の業があります。礼拝でも、聖書朗読、アコライト、奏楽、献金、聖歌隊、また礼拝の準備のために受付を準備してくださること、礼拝堂の掃除、聖書に栞を挟むことなどが挙げられるでしょう。また、そのほかにも教会学校、女性会、壮年会、青年会などグループによる奉仕などもあります。教会の活動の多くは、一人ひとりが奉仕することによって成り立っています。

 しかしながら、そのこと自体は、大切なことであっても、そのことに気を取られ、気を散らしていく余りに神を忘れてしまっては、元も子もないのです。奉仕の根源にあるものは、神の御言葉、神の御心に従うという信仰によって成される業だからです。奉仕が、先だって神の御心にかなう、御言葉に従うのではなく、まず働くのは、神の御言葉なのです。

 ここに立たなければ不満が生まれるのです。私はこれだけしているのに、あの人はちっとも働かない、あんなことをしているというように、神にではなく、人に耳目を奪われ、あの人と私という分断を生み、さらに神と自分自身の間にも分断を生み出してしまうのです。
 だからこそ、私たちは、何をするにしてもまず神の御心に聴くのです。自分の思いや行なっている事、他者が行なっていないと粗を探し出すのではなく、何を成すにしてもまず神の御言葉に聴いていく時、それは真となり、神を顕す働きとなるのです。

 そして、その働きに上も下もありません。パウロは「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」と語っていますが、一人ひとりに与えられている業は、神から与えられている働きなのです。もしそれを咎め、不満を言ったり、批判をするのであるならば、それは神を否定したことにもなるのです。もし、それが神の御心でなければ、成らないのですから、それは神にお任せすればいいのです。

 だから成すべきことは一つ。神の御言葉に全身全霊を向け、いま私に語り掛けられていることは何かを聴くことです。そして、このことによって与えられる御心に従い、喜んで行なうことなのです。人から批判されようと、馬鹿にされようと、邪魔をされようと、無駄だと思われようともそれが真剣に神に聴いて示された道であり、行いであるならば、必ず神が道を開き、指し示し、必要を満たしてくださいます。

 だからこそ、私たちに主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださっているのです。この破れと分断が生じ、混乱し、不安が募り、心が騒ぐ時代においてなおのこと大切な主イエスの教えです。そして、このことは、主イエスご自身のお働きがまさに、この世に仕え、神の国と神の義を実現してくださったことを示しています。自分の思いではなく、徹底的に神の御心に聴き、神の御心から離れていれば公然と批判をし、声を上げ、抵抗しました。一方で、神の御心であるならば、批判されようと、痛めつけられようと、そして十字架で死ぬことであろうと徹底的に従われたのです。

 いま、排外主義者が大きな声を上げて叫んでいます。果たしてそれが神の御心に適うことでしょうか。私たちが示されている福音は、キリスト者だけに与えられている恵みでしょうか。そうではないはずです。福音はすべての人の救いです。そうであるならば、いま私たちの社会の中で起こっている事柄に私たちは、プロテスト、抵抗していかなければならないと思うのです。

 神の御心に聴くとき、私たちの行いは示されます。いま、お一人お一人が神の御心に聴くとき、何を成すべきか、何を語るべきか、何を成さざるべきか、示されています。新しい日々が今日から始まります。その中で今一度、私たちは不安に駆られ、気を散らすのではなく、神の御声、御言葉、御心に信仰により聴いていきたいと思うのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。