今週の説教

 MENU>>>|TOPページ教会案内今週の説教教会への交通教会学校週 報LINK |

2024年1月14日 顕現後第2主日礼拝

《説教題》

「主の僕として生きる」

 聖書日課
   第一日課 サムエル記上 3章1節‐10節
   第二日課 コリントの信徒への手紙一 6章12節‐20節
   福音書   ヨハネによる福音書 1章43節‐51節


【説教】
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 なぜ、私たちは神に従いえるのか。今日示されているナタナエルを弟子にする出来事から聞いていきたいと思うのです。と言うのは、私たちは本来、神に従いえない存在という真実があるからです。それは聖書全体が人間について語っているとおりです。

 創世記以来、聖書に書かれている人間の実像は、神の御心に従うことができずに罪を犯し続けている姿です。最初の人間も、取って食べてはならない木から取って食べてしまいました。モーセたちも荒れ野でエジプトに居た時の方がマシであったと神に不平を漏らします。ダビデすらも部下の妻を寝取って、当人である部下を戦の最前線に送って殺してしまいました。それゆえに彼は神殿建設を生涯神から許されることはありませんでした。
 その後のイスラエルの歴史は皆さんもご存じの通り、神への背信により国は滅ぼされ、バビロン捕囚という苦難を味わいました。

 現代の私たちも同様です。神の御心に従いえていたら、戦争によって殺し合うことは起こらないでしょう。路上で寝泊まりをする人は居ないでしょう。ヤングケアラーなど子どもたちを取り巻く過酷な状況は無いでしょう。互いに愛し合いなさいとの御子イエスの一番大切な教えを現実のものとできていない姿、事象が世界中に溢れています。

 私たちは本当に神の御心に対して無理解を示しています。しかしながら、その中で私たちは自分たちの罪深さを知らされ、悔い改め、神の御救いと赦しの出来事に与かっています。キリスト者とは、罪赦された罪人であることを覚え、神の御心に生きることを信仰告白により応答した者です。神の御心に従いえない私を神は召しだし、友としてくださり、平和を実現する者、互いに愛し合うように導き、強められている者としてくださっているのです。

 この喜びと平安に私たちは満たされています。しかしながら、世には未だにこの神から与えられる憐れみ、赦し、慈しみについて知らない人がたくさん居られます。私たち一人ひとりが御子イエスという幹に繋がれている枝であって、一人ひとりがバラバラなようで一つとされていることを世は未だに知らない人が多いのです。

 しかし、神の神秘は、私たちの一切を知っておられます。私が形作られるその前から、私という存在を捉えてくださり、豊かな愛と憐れみ、慈しみを向けてくださっているのです。詩編作者はこの神の神秘に自分自身の命が照らされていることについて「16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。17あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。18数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。」(詩編139)と美しい詩編賛歌を遺しています。

 この詩編賛歌は全ての人の賛美の声です。私たちは神に対して、御子に対して何一つ善いものを渡すことはできません。けれども、聖書を通して神が伝えてくださっていることは神から与えられている恵みは「数えようとしても、砂の粒よりも多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる」とあるように、私たちは徹底的に神の恵みにより、神への信仰が与えられ、喜びに溢れさせていただいているのです。

 このことにより私たちの命は、滅びを待つ命ではなく、その輝きは増し加えられ、御子の示された永遠の命に生きる者とされます。私の命が神の命と繋がれて、神の宿る神殿とされている光栄に気が付かされるのです。この神の徹底的なお働きにより私たちは主の僕として生きる者とされるのです。

 注意しなければならないことは、自分の主人を聖書の神にしようとして、つまり自分で神を主人にすると選択して私たちは生きているのではないのです。
 一方、世の中は、何事も自分で取捨選択して、それが間違っていれば自己責任であるという風潮が非常に強いように思います。それは大人だけでなく、子どもにも強いるような社会になっている気がするのは私だけではないでしょう。

 そして、このような世の中で起こっている事柄は、その選択肢の多さに迷い、悩み、立ち尽くすほかなく、置いていかれている人々が多すぎるのです。目まぐるしく変化する中で常に正しい選択を迫られている世にあって、今、聴いている福音は間違いなく、翻弄され、疲れている人々にとって救いとなります。何故ならば、私たちは選択する必要がないからです。私たちは神に捉えられて、神によって一人ひとりが生きているからです。

 それは、選択を正しいと自信満々に生きている人々にとっても同様です。その様な人たちも選択を迫られた時には、迷ったでしょうし、不安があったに違いないからです。しかし福音が私たちに伝えていることは、私たちを神を宿す神殿として造り変え、神御自身が私たちの内に宿ってくださり、一人ひとりが本当に生きる者とされている。

 しかもこの生き方は、誰かに操られているのではないのです。ルターのキリスト者の自由の冒頭のように「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。/キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」という二項対立する事がらを完全に成し遂げることができる本当に自由な身分とされているのです。

 神が私たちの罪を贖い、赦しを与えてくださったことにより、私たちは死から自由になり、この世においては神以外に誰にも仕えることはありません。しかし、神に仕える僕として、誰にでも仕える者とされているのです。主の僕として生きるとは、神を主と信じる信仰により
私たちは本当に自由な僕とされているのです。

 だから、喜んで隣人に仕えることができる。人を心から愛することができるのです。神によって新しくされる喜び、希望、平安を私たち教会には伝え、神の栄光を世に輝かせる使命が与えられています。顕現節の中にあって、それは主ご自身によって示された光ですが、その光を宿し、現すものとして一人ひとりが召されているのですから、御ことばを通して示されている神の御心を世に証しし、主を未だご存じでない方々に御ことばの喜びを伝えてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。