今週の説教

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《今週の言葉》


 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。( マルコによる福音書 第10章45節 )


あなたを解き放つ主


2021年7月25日 聖霊降臨語第9主日(典礼色 緑)
福音書日課 マルコによる福音書
第10章35〜45節(日本聖書協会 『聖書』 新共同訳 82〜83ページ)
讃美歌21 204、402

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 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 今日の、この 第10章45節の言葉。わたしはこの、主イエスの言葉が大好きです。とりわけ、愛するのです。

 ここに、「身代金」という言葉が出てくる。主イエス・キリストは、わたしたちのために、わたしのために、あなたのために、身代金を払ってくださると言うのです。これは驚きです――! ご自分の命を支払って、わたしたちを救い出してくださる。それほどまでに、わたしたちを尊い者として見ていてくださるのです。主は、わたしたちを棄てないのです。たとえ、自分の命を身代金として捧げても、何とかして私どもを取り戻そうとしてくださるという、主の、お約束です。

 わたしは、主イエスが、この言葉をおっしゃったとき、主イエスはひとつの“戦い”を挑んでおられると思います。わたしが、あなたのために、自分の命を捧げる、身代金として献げると言った時に、主は戦いを挑んでおられる。

 わたしたちの、生きている毎日の生活の中で、わたしたちは、決して、自分の命を高く見積もられるわけではありません。わたしたちをさまざまに評価する人ひとがいます。能力がある、能力がない。健康だ、健康でない。幸せだ、不幸だ、そのようにして様々な秤に、私どもをかけて、わたしたちを評価し値段をつける。いつの間にかわたしたちは、自分の命を小さなものとして見積もってしまう。ことによりますと、自分などほんとうは生きていてもしようがないのではないか、とんでもない過ちでありながらしかし、そのように思い込んでしまうのです。けれども主イエスはおっしゃる。

 囚われているあなたを救い出すために、わたしは自分の命を献げる… あなたはあなたを、あなた自身を、そんなに小さく見積もっちゃいけない。わたしは何としても、あなたが生きているその価値を、知ってほしいのだ…

 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。

 わたしどもを、神のもとへと取り戻すための戦いです。この主イエスの戦いの姿勢はすでに、今日こころに留めたいと願っています第10章32節、最初の文章にも現れています。こういうふうに始まる。

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。

 都 エルサレムは、標高八百メートルの、丘の上にあると言います。山の上にある町です。エルサレムの都、山の上の都を見ると、主イエスは、先頭に立って進まれました。歩き方が違ったんでしょう。主イエスのお顔も違ったに違いない。その姿を見るだけで弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。そして主イエスはハッキリとおっしゃる。「今わたしたちはエルサレムに上って行く」――。

 けれども、どうも弟子たちには、少々呑気なところがあったようです。「今わたしたちはエルサレムに上って行く」と仰って、ご自分の十字架についてお語りになる主イエスのその背中で、二人の弟子、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに願い出るのです。

 先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが――。これ、もとのギリシャ語の言葉はたいへん興味深い言葉です。

 わたしたちの願っていること、それはわたしたちの願う通りにあなたがしてくださること。「わたしたちの願いはね、私たちの願う通りに何でもあなたがしてくださること」――。これ子どもの様な言葉です。わたしの思いを、わたしの願いを、とにかく聴いてね…。

 けれども主イエスは、その、まるで甘えたような、この二人の弟子の申し出を、退けてはおられません。「何をしてほしいのか…」。むしろそのように、この二人に尋ねる。もちろんほかの十人の弟子たちは、この二人の抜け駆けを許しません。わがままだ、主イエスを前にして、自分の願いどおりにあなたはしてください、そんなことを言うのはこれとんでもない、信仰的にも間違っている…

 しかし、主イエスは、このような甘えた願いさえも、退けておられないのです。私はここに本当に、主イエスの慰めがあると思います。

 この二人は甘えていると言えば甘えていたかも知れませんけれども、それだけ主イエスのことを信頼していたと、考えても良いでしょう。主イエスはその信頼を、退けない。「何をしてほしいのか…」。尋ねてくださるのです。尋ねられたこの二人の弟子、ヤコブとヨハネは、喜んで答えます。

 栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人はあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。

 このときこの二人が、「栄光をお受けになるとき」と言いながら何を考えていたのか、これはよく分かりません。聖書には書いていない。いよいよエルサレムが見えて来て、主イエスの歩きようが変わってくる。遂に都エルサレムに乗り込んで勝利を収める。ローマを倒して、新しい国を、今建設する。そういう風に考えたのかも知れない。あるいは、この信頼できる主イエスは、必ずや神の国を実現してくださる、今ここで実現してくださる。そういうふうに考えたのかもしれません。それはともかく、そのときに、主イエスの近くにいたい、いさせてくださいと願い出たのです。「一人をあなたの右に、もう一人を左に…」。どんなに主イエスが、愛されていたか――。主イエスはこの願い出を、やはり、拒否しておられません。けれども、こういうふうに言われた。

 あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。

 今主イエスが、受けている杯を、やがてあなたがたが飲み、主イエスが受けているバプテスマを、やがてあなたがたは受けることができるか――。

 「バプテスマ」というのは、これ、「水の中に全身を浸す」。それがもとの意味です。私どもの教会では、「滴洗」、あるいは「灌礼」と申しまして、洗礼をするときに、わたしが手に水を取って注ぐ、あるいはのせるだけです。

 けれども、別の洗礼のやり方をしている教派がたくさんあります。「全身礼」と申します。洗礼を受ける人と牧師は、大きな水槽に入りまして、洗礼を受ける人を仰向けに倒すのです。水に“バチャ〜ン”とこう…浸しますから、もしかしたら、鼻からも口からも水が“ゴボゴボ…”と入って来てしまうかもしれない。私も、そのような洗礼を幾度か見たことがありますけれども、あるときは、上がってきたひとはもう咳き込んでしまって、ほんとうに顔を真っ赤にして苦しそうな表情をしておられた。この「全身礼」という仕方が、教会の中では古いやり方なのです。

 そう――。水の中に、仰向けに、全部浸してしまう。ある苦しみに耐えながら、水をくぐるのです。

 そればかりでない。この「杯」という言葉に、主イエスのゲッセマネの祈りを重ね合せたらよいいのです。杯にしても、バプテスマにしても、これは苦しみを意味する。目の前に差し出された杯を“グイッ”と飲み干す。もしも頭が痛くなろうが、吐き気がしようが、グイッと飲み干すのです。あるいは、鼻から、口から水が入ろうが、水の中に深〜く身を沈める。

 このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。

 この質問がどこまで、このヤコブとヨハネに分かっていたか、知りませんけれども、ヤコブとヨハネは「できます」と応えます。

 そうすると主イエスは言う。「確かに、あなたがたは飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」。この二人の、これからの行く道を、主イエスは予告なさるのです。

 やがて、ここに出て来るヤコブは、剣(つるぎ)をもって殺されます。そのことが使徒言行録第12章に出てくる。ヨハネの方は、ヨハネが殉教したという記事は聖書には出て来ません。けれども、やはり初めの教会で、指導的な地位に立ちました。伝道者の生活をした。たとえ、殉教の死を味わわないにしても、伝道者の生涯というものには、いつでもある苦しみが伴っています。この二人の弟子たちは、主イエスの仰る通りに、主イエスについて行きながら、苦しみを味わったのです。――主イエスはおっしゃるのです。

 確かに、あなたがたはわたしが受ける杯を飲むことになる。あなたは、わたしについて来るならば、なお、大きな苦しみを負うことになる。

 主イエスに愛されるならよいのです。主イエスに救っていただくならよい。主イエスの右に、或は左に座らして戴くなら良いのです。主イエスが自分の願いを何でも叶えてくださるならば良い。けれども主イエスは、その想いを退けることはなさいませんけれども、ただ一つだけわたしたちに確認をする。

 あなたは苦しむことになる。それができるか…!?

 ――この言葉を巡って、教会には二つの生き方が生れました。一方には、この主イエスのお言葉通りに生きる献身者です。主イエスのために、ある苦しみを担いながら共に歩む――。そういう伝道者の歩みです。

 もう一方には「平(ひら)信徒」――これはおかしな言葉です。日本語ではしばしばそのように訳されてきた――「平信徒」、「ただの信徒」です。ある者たちは、献身者 伝道者たちは、慰めを与えるのです。与えながら苦しむ。

 しかし、一方の平信徒には、それほど大きなことは要求されていない。慰めを受けながら生きたら良いと言うのです。けれども、この頃は、どのような伝統をひく教会であってもそういう考え方を棄て始めています。

 一方に、特別に主イエスに従う者がいる。もう一方に、適当に主イエスに従えば良い者がいる、そういうわけではない。すべての者が、すべての人のための慰め手とならなければいけない。それが主イエスの願いだというのです。そういう時に私どもはこころが揺れる。わたしにとって、自分の問題だって十分にできていない。自分の苦しみさえ処理できていない。それなのに主イエスは、人のことを構えとおっしゃるのか。人のために苦しめとおっしゃるのか――。

 けれども、わたしは、主イエスのその願いを退けることはできないと思います。ただ、ひとつだけ大切なことがある。それは、主イエスはとにかく、他人を中心にした生活をせよとここで仰っているのではないのです、他人のために杯を飲み、他人のために苦しみを潜(くぐ)る。そういう苦しみの歩みをせよとおっしゃっているのではない。大切なことは、他人を中心にした生活を送ることではありません。そうでなくて、主イエスを中心とした生活を送ることです。主イエスに従う者としての生活を送ることです。

 その時にわたしたちは、ほんとうに主イエスに大切にされる。主イエスは、このヤコブとヨハネに対して、一度たりとも眉をしかめていません。わたしはそういうふうに信じております。どこを読んでも、しかめ面の主イエスの顔は出てきません。側(そば)で甘えるように願い出れば、「何をしてほしか」と聞いてくださる。「あなたのすぐ側にいたいのだ」と言えば、「どうも自分の願っていることが分かっていないようだけれども大丈夫か」と聞いてくださる。それだけでない。私ども一人ひとりの命を、ご自分の命を 身代金として献げるほどに、大切にしていてくださるのです。その大切にしてくださる主イエスの愛、これを大切に受けとめて、主イエスに愛されている自分を、愛するのです。

 主イエスに愛されている自分を、愛さないことは、罪の始まりです。

 ――苦しみの原因、これはどうしてか分からない。ただ、私どもが苦しむとき、大きな過ちを犯す。これは、わたしは、自分のこととして想いますけれども――わたしたちは、苦しみにおいても罪を犯します。自分だけが特別だと思い込むのです。そうしながら、ある時は自分は特別だ、他の人には自分の気持ち何にも分からない、なんてことを、思いながら、一方で逆に今度は、そんな自分は要らないと思って棄てようと思ってしまう。ほかの人生がうらやましくてしようがない。

 囚われているのです。――何者かに誘拐されて、檻の中に閉じ込められているのです。けれども主イエスは来てくださいました。

 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。

 あなたを救い出すために来た。もっとわたしに信頼して欲しい…! もっとわたしに甘えて、すがってほしい、もっとわたしに、あなたの願いを言ってほしい… そして、たとえ、負わなければならない苦しみがあるとしても、わたしが共に歩もうではないか。

 今、わたしたちはエルサレムへ上って行く――。
 
 祈りましょう。
 
 わたしたちを解き放ってください。どうぞ、苦しみから、そして、自分から逃げようとする私どもを解き放ってください。あなたの大きな光の中で、喜ぶべきを喜び、悲しむべきを悲しむことができますように。そして、主イエスと共に、負うべき小さな荷を、負って行くだけの勇気を、私どもに与えてください。主イエス・キリストによって祈ります。