今週の説教

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《今週の言葉》


 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。
( マルコによる福音書 第9章30節 )


抱き上げる主


2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日(典礼色 緑)
福音書日課 マルコによる福音書
第9章30〜37節(『聖書』 新共同訳 79〜80ページ )
讃美歌21 197

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 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 こう、今朝の日課は、始まります。これ何気ない言葉かも知れません。「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」。

 けれども、よく考えてみますとこれは、簡単に、それこそ通り過ぎることの出来ない言葉です。ガリラヤを、通って行った。

 主イエスは、このガリラヤ地方で活動を始められました。この後に、「一行はカファルナウムに来た」と書いてあった(33節)。これもまた、ガリラヤ地方の村の一つです。

 ここまで主イエスは、弟子たちとご一緒にお出かけでした。この ガリラヤ地方にある カファルナウムの町を去りまして、北の方に行った。フィリポ・カイサリアの地方で、弟子たちと集中した時を過ごされました。その北の町、北の村、フィリポ・カイサリア地方からガリラヤへ帰って来ました。カファルナウムに帰って来た。けれども、もうそこには長くは、お止まりになりませんでした。「一行はガリラヤを通って行った」――。もうガリラヤは、目的地ではないのです。ガリラヤを通ってどこに行くのか。主イエスはもうここですでに、ハッキリとエルサレムを目指して歩き始められておられます。じゃあそのエルサレムで、いったい何が起きるのか。――主は弟子たちもハッキリとお話になりました。

 人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。

 明らかに、主イエスは、エルサレムへ向かって、十字架へと向かう旅を、歩み始めておられるのです。その旅の途中、エルサレムへの旅の途中で、幾度も主イエスがお話になりましたことが、ご自分の死と復活についての予告でありました。

 今朝、ご一緒に耳を傾けました場所には、“再び自分の死と復活を予告する”という表題がつけられています。これ“再び”というのですから一度目がある。そう すでに、ご一緒に読みました第8章の31節以下です。そして、この後第10章32節に、三度目、主イエスはご自分の死と復活を予告なさる。その旅の途中、幾度も幾度も主イエスは、弟子たちに教え続けられた一つのことがあった。それがこの ご自身の、ご受難、十字架、そしておよみがえりについてでした。

 興味深いことですけれども、それに対応して、もう主イエスは、人々の病や不自由を癒すという奇跡を行うのをお止めになりました。ただ二度の例外を除いては、この後には、病んだ者たちを癒すという物語は出て参りません。むしろ、「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」とハッキリ書いてある。それ程に、十字架に向かって集中なさったのです。
 
 「救う」という字は、「健やかにする」という意味を持っている字です。肉体を健やかにする。これも大切な主イエスの使命の一つでありました。けれども、それ以上に、主イエスはもっと、私どもを健やかにしなければならないとお考えだったのでしょう。十字架によってしか、癒されることできない、わたしたちのほんとうに深い、暗闇――。その癒しに向かって集中なさったのです。だから主イエスは幾度も幾度も弟子たちにお語りになった。

 人の子は、人々の手に引き渡され殺される。殺されて三日の後に復活する。
 
 これも――細かいことかもしれませんけれど――しかしこの言葉も、簡単には通り過ぎることの出来ない言葉です。これ第8章の、一度目の 予告、8章31節以下に記されている、主イエスのお言葉と比べるとよく分かる。第8章の31節はこうでした。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 第8章31節では、いったい誰が、この主イエスを殺すのか。誰によって主が殺されるのか。「長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺され」と書いてある。明確です。しかし今朝、この二度目に、ご自分のご受難についてお語りになったときに主イエスは、「人々の手に引き渡され」とお語りになった――。

 どうしてここは「人々」になっているのだろうか。“長老 祭司長 律法学者たち”というのを、これを、言い換えて省略したのだろうか。私はどうも、そういうふうには思えないのです。

 主イエスは、ご自分の身を、弟子たちにお委ねになりました。弟子たちだけではありません。ご自分の身を、私どもに預けてくださったのです。けれども、その主イエスを、あなたがたが殺すと、このわたしを、あなたがたが殺すと、主イエスはハッキリおっしゃった。

 人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。……わたしはあなたに、わたしの身を委ねる。しかし、そのわたしを、あなたが、あなた自身の手で殺す。

 なるほど、第10章に入りますと、主イエスは様々なことを教え始められます。たとえば、たいへん興味深いことですけれども第10章の初めは離縁について教えておられる。これ「離縁」新共同訳聖書はここに「離縁について教える」という小見出しを付けましたけれどもしかし、離縁についてだけ教えられたのではないと思う。むしろ、結婚について教えられたのです。そして13節以下は、子どもについてです。第10章17節以下では財産について教えておられる。これどれも私どもの生活の、一つひとつの場面です。

 結婚をする。あるいは結婚しないとしても、わたしたちはそれぞれ、家庭や家族を持っています。あるいは小さな子どもが、自分の家にいる場合もあるでしょう、周りで見ることもあるでしょう。そして、決して多いとは言えないかも知れませんけれどもそれぞれが財産を持っている。わたしたちが、主イエスを十字架に追いやってしまうというのは、それは特別な場所ではないのです。

 また、主イエスを十字架に追いやるのは、長老・祭司長・律法学者たちだけではないのです。私どもの日々が、家庭を営み、あるいは子どもと共に過ごし、お金を扱いながら生きる私どもの生活が、そのまま、主イエスを十字架へと追いやるような生活となってしまうことがあるかもしれない。だから「人々」とおっしゃった。
 
 わたしたち、どこかやはり、自分の罪については呑気なところがある。主イエスを十字架に追いやったのはこれ二千年前の人たち。しかも、長老・祭司長・律法学者たちだと思っている。自分はどこかで関係ないと思ってしまう。しかしここでハッキリ主イエスは仰っているのです。

 人の子は、人々の手に引き渡され殺される…!

 この「人々」のなかに、あなたが入っていることに気づいて欲しい…! けれども弟子たちはこの言葉が分からない。分からないので、怖くて尋ねられない。

 しかも、これは、ただ分からなかったというだけではない。分からないならば、ハッキリ尋ねれば良いのです。「イエスさまそれはどういう意味ですか…」。けれどもそこで、怖くて尋ねられない後ろめたさがあった――。

 主イエスは懸命に、幾度も幾度も御自身の受難について語っておられる。「自分はやがて引き渡されて殺される。あなたが、あなたがわたしを十字架に棄てる」とおっしゃる。

 しかしその、主イエスの背中で弟子たちだけになると、ひそひそと語り合っていたことがあった。それは「偉さを競う」ことでした。十字架についてお語りになる主イエスの背中で、いったい誰がいちばん偉いのかという議論にうつつを抜かしている。彼らだってその過ちは知っていました。だから主イエスの正面で議論していたのではないのです。主イエスの背中で議論するのです。

 主はお尋ねになる。

 途中で何を議論していたのか。

 彼らは黙っていました。答えることなんかできない。私はここ読んでいて思います。弟子たちはある意味で正直だった。口に出しながら「誰が偉いか」、そういう話をする。

 これはわたしたちの姿と無縁ではないと思うのです。まことに悲しいことですけれども、牧師が集う時になしてしまう過ちは、やはり誰がいちばん偉いかと皆で語り合うのです。あの人は立派な人だ、この人は立派な人だ。そして大抵は、それだけではない。少しでも立派に見える者たちを、皆で陰口を言いながら引きずり降ろす。あの人は、実はこういうところがある。ああいうところがある。秘密を暴露し合いながら、皆で引き降ろす。

 人をうらやむ――。これもまた、偉さにこだわっていることの裏返しのしるしです。まさか、そういう話をわたしたちは礼拝の中でするわけではありません。しかし、相手とのかかわりの中で、しばしばそういうこころに悩まされるのです。わたしたちを苦しめているものがあるとすれば、そのなかの大きなものはやはり嫉妬だと思う。あの人はあんなに立派な生活をしている。だけど、ああいうところがある…と。

 こういう話を聞いたことがあります。お寺のご僧侶たちが、懸命に修行をする。欲を取り去る生活をなさる。年を重ねればなるほど、食欲も、色欲も、だんだんと衰えていくと言います。けれども、幾ら年を重ねて、幾ら修行の生活を致しましても最後まで取り去られないものがある。それは、妬みのこころだというのです。嫉妬のこころです。

 主イエスは何とかそういう私どもの一番奥底に、根づいている暗闇から、わたしたちを解き放とう、健やかにしようとしていてくださる。主イエスはそしてそこで、お座りになられました。十二人を呼び寄せた。

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

 “座る”。これは、大切なことを伝える時の姿勢です。主イエスはどっかりとお座りになって、よぅく聞いてほしい…! そして仰った。

 いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。

 ここも注意深く聴いておいたほうが良いと思います。主は、「誰も先頭になるな」とはおっしゃいませんでした。一番先になる者がいるのです。先頭にならなければならない者がいる。これとても大切なことだと思います。

 わたしたちはしばしば、人の前では一番前に立つことを嫌がります。人から離れると、自分のこころの中では自分は一番になりたいと思っていますのに、どうしてなのでしょう人の前に行きますと、遠慮して見せたりする。けれども主イエスは、そのようにこころの中で、取り引きをするのではない。やはり誰かが一番先頭に立たなければならない。引き受けなければならない責任があるのです。

 教会の中で、わたしたちのなかに、やはり、さまざまな意味で、能力を持っている方がいます。財産を持っている方もいる。しかし、そういうお一人おひとりはやはり大切なのです。一番前に立たなければならない。あるいは財産や、さまざまなずば抜けた能力が無くても、わたしたち一人ひとりの与えられているタラントがります。それをもって、人の前に立つ・人をリードしていく――。そういう良さが皆、誰でも持っている筈です。けれども、そういうものはしかしその責任を持ちながら、なお、仕えるのです。人に仕える。最も低いところに立つことが求められる…!

 主イエスが、どっかりと座って十二人を呼び寄せて、お話になる。その時に、忘れられない出来事が起こりました。主イエスはそこにいた一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われるのです。

 わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。

 この出来事は、カファルナウムでの出来事です。しかも、「家に着いてから」と記されています。「カファルナウムの家についた」。マルコによる福音書では、「カファルナウムの家」。これあるやはり特定の場所を指していました。これはペトロの家です。ぺトロが、暫く自分の家を空けて、主イエスとしばらく、フィリポ・カイサリア地方に出掛けてしまった。家の者は帰りを待ちわびたでしょう。ペトロには、妻がおりました。また、妻の母、姑がおりました。それだけではない。おそらく子どももいたに違いない。子どもたちは喜んでいたでしょう。ようやく、お父さんが帰って来る。ところがお父さん、帰って来たと思ったらば、大人の部屋を閉めてしまって、何事か、イエスさまと話をしている。子どものほうはお父さんに会いたくて仕方がない。

 ペトロの姑がお茶でも出しにいった瞬間でしょうかドアが開いた瞬間にでも、子どもたちが“パァーッ”と入って来まして、ペトロの膝に乗る。あるいは子どもたちはイエス様のことも大好きだったでしょう。イエス様のお膝に乗る。

 ペトロにとってはこれ迷惑だったに違いない。こいつらは話も分からないのに、どうして我々大人の話の中に入って来るのか。眉をひそめたでしょう。今ここは俺たちの場所、お前たちなんかの来るところではない。ところが主イエスは、その子どもの一人を、真ん中に立たせまして、抱き上げるのです――。そして顔を横から覗かせる。

 あなたが、厄介に、うるさいと思っている、こういう小さな子どもがもしいるとするならば、どうか、その子どもをわたしの名のゆえに受け容れて欲しい。あなたが、自分の偉さを望むゆえに、いつの間にか見失い、押しやってしまっている周りの一人ひとりがもしいるとするならば、その一人ひとりの横に、わたしの顔が覗いているのを見つけて欲しい…!

 
わたしの名のゆえに、この幼子を受け入れてほしい・・・ わたしたちは一人ひとり、キリストを求め、キリストを尊ぶ姿勢において幼子そのものであり、互いに祈り、受け入れ合って歩む者です。これまでそうであったように、これからも この抱き上げられている幼子はわたしであり、あなたであると信じます。
 
 それが主の願いであり、祈りであります。