今週の説教

 MENU>>>|TOPページ教会案内今週の説教教会への交通教会学校週 報LINK |

《今週の言葉》


 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(ヨハネによる福音書第20章30−31節)


わが主よ、わが神よ


2021年4月11日 復活節第2主日(典礼色 白)
福音書日課 ヨハネによる福音書
第20章19〜31節(日本聖書協会 『聖書』 新共同訳 210ページ)
讃美歌21 343 329

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


 福音の日課で聴いた、30節、31節の言葉を繰り返しました――。一般には、この30節と31節は、ひとつの書物の終わり、結びの言葉であるかのように読めます。実際にそのような書き方をしているとも言えます。ですから、ヨハネによる福音書は、もしかするとこの第20章で一区切りついて終わっていたのではないか。それに、第21章が書き足されたのではないか、そう理解することもできますし、そのことを否定する必要もないかもしれません。

 しかしわたしは、ここは、29節までで本文(ほんもん)が終わって、ここで、いわば結びの言葉と言いますか、あとがきの言葉をヨハネが書いたのだとだけ考えるということは、正しくないと思っているのです。何故かと言いますと

 イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが

 つまり、主イエスが、神の子であられ、父なる神の御業をなすために来られたのだということを、ハッキリと、確かな事柄をもって、人々の前に示して、特に 弟子たちには、そのことを明らかにしてくださった。それは、この書物に書き切れないほど、沢山のことなので、それ以外のことは省略せずにおれなかったと、言うのです。

 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため

 何故ここをこういうふうにに書いたのでしょうか――。明らかに、この福音書を記した者は、この、直ぐ前に記しました、トマス、ディディモと呼ばれるトマスと主イエスの出会いの物語を、念頭に置いていたに違いない。トマスこそ、「主イエスは神の子メシア、神の子キリストである」と、信じた人だ。そのことによって、信じて主イエスの名によって命を受け入れることができた われわれも、トマスに続こう ということです。

 言い方を変えると、この、福音書記者は、トマスの物語を書くことによって、もうこれで、この福音書と呼ばれる書物を書き続けて来た、目的は“果たされた”と思って、ここにこういう言葉を記したと、受けとることも出来ると思います。

 「ディディモと呼ばれるトマス」とありますけれども“ディディモ”とは翻訳を致しますと双子、あるいは双子の一人、ということです。トマスにはもう一人、弟か妹か、それとも兄か姉か分かりませんけれども、双子がいたのです。

 ある、神学者が(ドイツのベルリン大学のイェルンス先生)、このところについて書いている興味深い文章があるのです。そこで、この先生は「いったい、トマスのもう一人の、双子のきょうだいの方は何処に行ってしまったのだろう…福音書の中に登場しないが…」ということを言いながら、「いや、トマスの双子の兄弟それは、この私だ、私たちだ、あなただ…」とそう言っているのです。双子はトマスそっくり。私どももトマスそっくりに「わたしの主、わたしの神よ」と、およみがえりになった主イエスに、お応えする。信仰の、告白をする。だから、およそ教会を造っているキリスト者というのは皆、トマスの双子の兄弟だ、そうでありましょう。

 イエスはトマスに言われた。わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである。


 わたしは肉眼をもって、主イエスを遂に、仰ぎ見ることが出来たから、主イエスがおよみがえりになったと信じる。

 ――私どもはそうは言えないのです。トマスはそう言えた。私どもはそうは言えない。けれども主イエスは、その私どものこころを思い遣るように、「見ないのに信じる者は幸いである」。少し、丁寧に解すとこういうことでしょう。

 トマスよ、あなたは、わたしを肉眼で見ることができたから信じたのか、肉眼で見て、わたしに会えたから、信じるのか。わたしを、見ないで、肉眼で見ることはなくても、わたしに、会える人々が、いやわたしが、訪ねる人々が、これからたくさん生まれて来る。わたしは誰に対してもいのちの息を吹きかけ、“わたしの主 私の神よ”と、わたしに対する信仰の告白をする人々を呼び起こす。そのわたしの招きに、応えることができた人は幸いだ――。

 我々が見ることによっては、我々が確認することしか認めることはできない。見ることを通して、触れることを通して、我々が確認するのは、我々の現実のこの体が確認し、この目が確認できるものだけである。

 見ないのに信じる者は幸いである。

 これは、私どもに対する、主イエスの祝福の言葉であります。

 トマスがなぜ、最初の19節以下が語っている、出来事の時に居あわせていなかったのかは、分かりません。トマスはこの時、別に呼ばれた訳ではなかったということもあったのでしょう。自分の家に一人でいたかもしれません。いよいよ深い恐れをもって、独り取り残される思いに、なっていたかも知れません。その日が過ぎて、弟子たちにたまたま、会いますと、「わたしたちは主を見た」。「私たちは主イエスにお目にかかったのだ」と言った。

 トマスは、「あなたがたがそんなことを言ったって、それは幻を見たのかも知れない。あなたがたは主を見たと言う。けれどもそれでわたしが救われる訳ではない。あなたたちが主にお会いしたと言ったその言葉を信じても、このわたしが救われることはない。そうでしょう。――釘の跡があり、その釘跡に、自分が指で触れて見ることが、赦されるような、そのような仕方で、主イエスに お目にかからなければ、槍の刺さった主イエスの 脇腹の傷に手を当てて見なければ、私は決して信じない。そうであろうと思います。

キリスト者になるのに、あるいはキリスト者であり続けるのに、一番の困難があるとすれば、主イエスのおよみがえりを信じることが出来ないということでしょう。身体をもっておもみがえりになった。霊が、ただ身体を抜け出したということではない。身体をもっておよみがえりになった。それは信じられないことだ。“疑い深いトマス”と、よくニックネームがつけられて、呼ばれますけれども、このトマスのこころは、誰のこころにもある、思いであった。

 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中にいた」。その時 トマスは、今度は弟子たちにも誘われたかも知れないし、一週間経ってまた、主イエスが訪ねて下さるかも知れない、その期待をもってトマス自身が、“わたしも一緒に居る”と言ったのかもしれない。

 一週間前に、およみがえりの主イエスに お会いして、主イエスから聖霊まで注がれていながら、弟子たちは、不思議なことにまだ恐れを抱いていたのでしょうか。鍵をかけていました。いやもしかすると、キチンと 鍵をかけていれば、そこに、主イエスの 御姿を拝することが出来ると、およみがえりの主に、もう一度同じ形でお目にかかりたいと、準備していたのかも知れない。良く分かりません。ただ、弟子たちのこころが、まだ不確かなところを抱えたままであったのではないかということは、言えると私は思います。

 主イエスの およみがえりの事実が、だんだん確かになって来る、まだその途上のところでの、ことであります。
 
 主イエスが、期待していたように来てくださって、真ん中に立って、また、「あなたがたに平和があるように」と挨拶をして、くださいました。それからまるで、このトマスに向かって、このトマスに会うために、やって来られたかのように、いきなり言われます。

 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

 トマスを、御叱(おしか)りにならないで、トマスを、信仰へと、招いてくださいます。

 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

 私どもへの招きのことばです。皆さんへの招きの言葉です。このわたしへの招きの言葉です。弟子たちの言葉など信じられない、というところに拘って、俯いているのではなくて、顔を上げたらいい。疑うならば指をここに当てたらいい。そう促されてトマスは……どうしたのでしょう。――ヨハネは「トマスは喜んで手を伸ばして主イエスのお体に触った」とは、書いていないのです。――考えてみると不思議なことでありまして、先に、マグダラのマリアが、主イエスのお体に触ろうとしたら、「触るな…わたしにすがりつくな」それを、払っておられます。ここでは、「手を伸ばしたらいい」と仰っています。

 そして今度は、恐らく、いいえ、きっと、トマスは、手を伸ばして その御身体に触ることはなかったでしょう。少なくとも、福音書記者ヨハネは、喜んで手を伸ばして、主イエスの、手に触り、脇腹に触って“間違いない、あの主イエスである”と、確かめたとは言っていない。ただ、「わたしの主、わたしの神よ」とお応えしたと言うのです。

 信じないものではなく信じる者になりなさい。

 この御言葉に対する応えは、ただひとつ、これであったのです。「わたしは信じます。あなたはわたしの主、あなたはわたしの神」。――トマスは、マグダラのマリアのように、主イエスを独占しようとしたのではないと思われます。そうではないのです。弟子たち一人ひとりの主、神になってくださったように、いま、私の主になってくださいました。わたしの神になってくださいました。主よ、あなたはこのわたしをも忘れたまわず、わたしから離れることなく、わたしの心をすべて知っていてくださった。

 触るどころか、ひれ伏さざるを得なかったでありましょう。

 そして、ここで、言って見れば、主イエスと、マグダラのマリアを含めた、弟子たちの、出会いの物語が、完成致します。

 およみがえりになった、主イエスと、出会った時に、生まれて来る、その頂点に立って、輝き始めている信仰のことば、それが、「わたしの主、わたしの神よ」であります。

 そしてこの後(のち)、主イエス・キリストの教会はいつもこの信仰に生きて参りました。いつも主キリストを指差して、「わたしの主、わたしの神、わたしたちの主、わたしたちの神よ」と、私どもの信仰を、言い表して来ました。そのことによって、死に勝ち続けて来ました。そのことによって、不安に勝ち続けて参りました。その信仰に生きているところで、この福音書が、生まれたのです。

 ですから、「主イエスは弟子たちの前で多くのしるしをなさったが」この“しるし”というのは、“奇跡”という意味でもありますけれども、様々な癒しの奇跡をなさった不思議なことばかりしてくださったということが、この、ヨハネのいちばん書きたかったことではないのです。

 そうではなくて、あのナザレの、イエスと呼ばれた、大工の子に過ぎなかった、と誰もが思った、イエス御自身が、「わたしの主であり、わたしの神である」ということを、明確にしてくださった。そのために、多くのしるしを行い、それを用いてくださった。このしるしはすべて――一体、“見た”とか“会った”と言うけれども――どなたにお会いしたのか、その、お会いした方がどなたであるか。それを明確にする、しるしです。

 福音書っていうのは、この、主イエスの御業を書き綴る、そのためにだけ、生まれた 書物です。だから、もう一度、三十一節に戻りますと、

 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは、神の子メシア-――つまり、キリスト――であると信じるためであり

 キリストが、主イエスが、目の前にある。十字架につけられた跡を体に残しておられる、肉体をもった人間イエスが、神の子であられる。しかも、キリスト、救い主であると、信じる。そのためにこの書物は編まれた。福音書と言うのは、その意味で、証しの書、伝道の書、主イエスを、神の子キリストとして紹介ためだけに書かれている書物です。
 
 そして、これを読み、この書物を説き明かす人々の言葉を聴いて、トマスと同じ 信仰に生きることが出来るようになった者は、イエスの名により、いのちを受ける… このいのちは、心臓の鼓動とは、別の、御霊(みたま)の 鼓動を、私どもに、伝えてくれる(雨宮慧司祭)、永遠のいのちです。霊によるいのちです。主イエス御自身の中に、生きていた命が、いま私どもの、命と なるのです。

 この福音書を書いてきた、ヨハネが――私はこの言葉を書いたときに――どんな、喜びと望みに溢れていたことであろうかと思うのです。

 祈りを致します。

 「わたしの主、わたしの神よ」。どうぞこれが私ども一人びとりの、主イエスに対する確かな、信仰の告白となり、いのちのことばとなりますように。

 よみがえりの主 イエスの御名によって祈ります。