今週の説教

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2022年5月22日 復活節第6主日

《説教題》

「平和が残されている」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 聖書が語る平和とは、文字通り平和という意味に加えて、一つという意味があります。なるほど、たしかに平和とは一つであることです。人の思いが一致しているところでは争いやいざこざは起きません。

 しかしながら、一見平和に見える私たちの周囲において真に一つの思いで生きているかというならばそうとは言えません。それは穏健な平和と言えるかもしれません。誰かと衝突することを好まず、自分が思うところがありながらも黙してやり過ごす平和。それが今、私たちを取り巻く平和の在り方とも言えます。

 今日の福音においてイエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と語られました。このイエスの御ことばの示す「平和」とは何でしょうか。この主が語られた「平和」という言葉に示されている御心にご一緒に聴いてまいりたいと思います。

 この平和について語られる前にイエスは「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と教えてくださっています。これは、聖霊の恵みを与えるという約束であると同時に、逆説的に考えると私たちが主について自分自身で知ることも、主の話されていたことについて忘れ去ってしまう存在であることを示しています。
 
 主は去られるとハッキリと語られます。神の御心を教え、導く方が居なくなることへの不安が弟子たちに拡がったことでしょう。
 なぜ、不安な思いが強くなったのでしょうか。それは自分の存在を是としてくれる人が失われる恐れです。イエスに従っていた多くの人々は、社会的にみれば何の地位もないような市井の人々でした。その中には、徴税人、病人、女性、子どもまで居ました。彼らはその生業のゆえに、負っている心身の病、身体的に負わなければならない生理現象のゆえに、また子どもだというだけで罪人、価値なしの者と捉えられていた人々だったのです。

 ザアカイの記事に「ザアカイはいそいで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」と記されています。徴税人であり、誰からも忌み嫌われ、無視されていた自分に目を留めてくださった喜びが表されています。それまでは、彼の存在は「無」でした。またその生業のゆえに罪とされ、自分の命は死に服するほかない、生きながらに死んでいるような心持で生きねばならない状況だったのです。

 しかしながら、イエスが目を留め、その存在を是としてくれた時、彼にはこの上ない喜びが与えられました。徴税人でしたから、それなりの財産があり、他の人よりも多少の贅沢をすることができたことでしょう。しかしながら、彼の心の不安を取り除くに足るものはそれまで何一つありませんでした。しかし、この出来事によって彼はこの世の何にも勝る平和と平安を与えられたのです。自分の存在を肯定されたからです。

 この根元的な人間の思いを主はご存じです。この世に居られる間は共に生き、語り合い、交わりを持ち弟子たちに平和、平安を与えてくださっていました。しかしいよいよこの世から取り去られる時を前にして、その姿が取り去られればたちまちに不安に取りつかれ、苦難、痛み、悲しみに憑りつかれる弱い私たちのために「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」を送るとの約束を与えてくださっているのです。

 この弁護者によって私たちは主の教えを日々その心に刻み、信仰生活の一つひとつが守られ、主の御心を世に証しする御力を与えられ、その不安が取り除かれるのです。

 主イエスの御姿、御声、親しい交わりを交わすことはできず、不安に陥るのではなく、この聖霊が全てを悟らせ、信仰を与え、主の御ことばの恵みを与える。私たちの平安の基として支え導いてくださる源が私たち一人ひとりに在るのです。これが私たちを力づけ、希望に溢れさせ、平和を与えてくださいます。

 イエスは、十字架の死の苦難を歩むという人間にとっては到底耐えることのできない苦しみの道を歩まれました。この道は人間の力や心持によるならば決して行くことのできない道だったでしょう。事実、イエスは人間としてお生まれになり、人間の感ずる苦悩を心に覚え、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」という祈りをもって捕らえられる直前にオリーブ山で祈っています。

 真の人として生きたからこそ人としての苦難、苦悩、痛み、不安を覚え、自分の存在が揺り動かされたイエスの姿を私たちは聖書を通して知らされています。しかしながら、この存在の否定に打ち震えながらも「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、そのイエスに天使が現れ、力づけたとあります。この力づけ無しには、イエスは十字架の道、死への道を歩むことができなかったでしょう。

 死は私たちにとって最大の苦難、苦悩、痛み、不安、存在の否定そのものとして襲ってくる出来事です。死が罪の結果であるのですから、私たちは誰もがその死に服する者、罪の力に抑圧され、囚われている者でしかありません。常に死、その根源である罪は私たち一人ひとりの存在を無きものにしようと襲ってきます。聖書は罪ある状態であれば、神の裁きが下り、その存在が無きものになる。存在の否定が私たちを常に襲っているのです。この存在の否定が私たちをあらゆる痛み、苦しみ、不安に陥らせるのです。この人間の限界を主イエスも私たちと同様に経験し、負ってくださいました。

 しかしながら、その力にイエスは服するのではなく、神への全き信仰、全き従順によって死の力、罪の縄目から私たちを解き放ってくださったことを十字架の死と復活を通して示してくださいました。

 何故ならばイエスは神において「平和」だったからです。神の御心を悟り、神の御力が注がれていることを信じ、神の御心に委ねていくことによってのみ、あらゆる苦しみ、痛み、不安が襲うとも、どんなにこの世の力によって存在の否定をされようとも「平和」だからです。

 「平和」というと少しニュアンスが伝わりにくいですが、口語訳聖書だと今日の福音は「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」となります。
 神への全き信仰、従順によって存在が「平安」とされることをイエスは示してくださいました。
 本来、存在がいつも罪、死の力によって傷けられ、滅ぼされる危機的状況にありながら、その私を深い憐みと愛によって救い出し、たとえ罪人であろうともあなたはわたしの愛する子であるという祝福が置かれた存在として、その存在が肯定され、保証されるからです。

 そして、この神は始めから終わりまで私たちを支配し、私たちと共に生きて働いてくださる神なのですから、私たちはいつも、永遠に神の存在の肯定の中で生かされているのです。すなわち、神の愛と憐みによって、私たちはいつも存在を脅かされる者ではなく、神にとって貴く、慈しみと憐み、愛の対象とされているのです。

 ですから、私たちが考える平穏な平和、穏健な平安としてではなく、イエスは慈しみ、恵み、憐み、愛に富んだ積極的な「平安」を私たちにもたらしてくださっているのです。これは私たち自身では決して実現することも、獲得することもできない「平安」です。この主イエスを通して与えられる「平安」を私たちはただ無償で受け取ることによってのみ真の平和、平安を私たち一人ひとりが得るのです。

 御ことばはお互いにその存在を否定し合い、いのち、尊厳を傷つけることによって得る平安を否定します。ただ主イエスによってもたらされる平安のみが私たちを真の平安へと導くと語り掛けます。私たちはこの神から与えられる豊かで、慈しみに富み、恵み深い愛の賜物を受け取るほかに平安は無いことを教えられます。

 この罪人をとらえ、離さない神の愛、主イエスが私たちのただ中で生きて働いてくださった十字架の死と復活、そして聖霊を通して与えられるこの平安を喜ぶ者とされていることを覚えてまいりましょう。

 真の平和、平安は神から与えられ、一人ひとりの存在が肯定され、喜びと共に活き活きと輝くいのちとされていることを覚えてまいりましょう。そして、この御心を受け取った者として、聖霊の助けを与えられながら、主と共にこの豊かな恵みを、存在の否定の中で不安を覚えている多くの方々に届けてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。