今週の説教

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2025年4月20日 主の復活(イースター)主日礼拝

「主の復活(イースター)主日礼拝説教」

 聖書日課
 第一日課 イザヤ書 65章17節‐25節
 第二日課 使徒言行録 10章34節‐43節
 福音書 ルカによる福音書 24章1節‐12節

【説教】
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 
 主の復活の喜びの出来事に共に与かる時が与えられているこの時、真の恵みの時であると感じます。わたしたちの信仰において無くてはならないことの神より賜る救いのできごとを通して与えられている御心が何かを福音を通して聞いてまいりたいと思います。

 さて、キリスト教信仰における肝心要はなんでしょうか。それは、「復活信仰」です。復活こそが、私たちの信仰における喜びと恵みの源です。私たちは、確かに主イエスを死に渡しました。私たちが犯した罪をすべて主イエスは担い、苦しんで、十字架に死んでくださったことにより、私たちは罪の苦しみから解放され、神から赦しを得ています。

 この主イエスがその命を賭して成し遂げてくださった十字架は、私たちの救いのしるしとなったのです。私たちは、もはや神と何の関わりのない存在ではなく、罪人でありながら、その罪を神の御働きにより赦され、神と共に生きる者と造り変えられたのです。

 その証しとして今日、私たちは主イエスが復活された出来事を覚えることにより、確信を与えられます。それは、罪、そしてその結果である死から解放されているということです。何故ならば、主イエスは、十字架の上で確かに死なれたからです。そして、その死の中から、復活してくださったことにより、罪と死の力に打ち勝ってくださったと伝えているのです。

 私たちは、自分自身では生きることはできません。いつも迷います。迷い出た羊の譬えにあるように、群れで進んでいても、いつの間にかその群れから離れ、死の淵に立たされてしまう。羊は、自分で思考して群れから離れるということはほぼありません。言い換えるならば、気づいた罪については、悔い改めることが適ったとしても、気づかずに犯した罪によって、神から離れ去ってしまっているということを表します。

 私たちは、罪という事がらを恐れます。このことにより神の恵み、救いから漏れてしまうからです。しかしながら、罪を恐れていても、罪を犯してしまう。そういう存在なのです。その私たちを憐れみ、慈しみと愛をもって養うために主イエスは、復活を成し遂げたのです。

 ですから私たちは、道なき道を行く者ではなく、神の御国へと繋がる道を歩んでいるのです。しかも、その道をたった一人で歩んでいるのではなく、復活の主が共に居て下さるのです。その事を表す事がらが今日の福音には示されています。それは、婦人たちが復活の朝、空となった墓、遺体が取り除かれたことに「途方に暮れて」いるという言葉から示されます。

 この言葉はギリシャ語で「〜ない」という否定の言葉と「道」という二つの言葉が合わさって出来た言葉です。「途方に暮れて」いる状態とは、このことから「道がない」という状態を顕すのです。
 どのように生きていけばいいのかも分からずに、途方に暮れて、迷い、悲しみ、悩んでいる状態が、主イエスを見失った者のあり様だということを聖書は示しているのです。

 このような人間のあり様を私たちは示されながら、復活の主を信じる信仰の恵みとは何かと改めて思い巡らしてみるならば、復活のできごとを信じることにより、このような途方に暮れている状態から、神ご自身が私たち一人一人に近づき、私たちを神の道、神と共に在る道へと連れ戻してくださったということなのです。

 私たちは、迷い、惑い、苦しみ、悩み、悲しむ者でしかありません。何故ならば、私だけでは、死はいつまでも取り払われないからです。それを思えば、思うほど恐ろしくなる。けれども、復活の主が共に在って、行く道をお示しくださっているのであれば、その道は必ず御国へと続く道です。
 道中に、苦しみや、悩み、悲しみがあったとしても、私は神の道を歩ませていただいているということを信仰により知っているのであれば、その事をすらも恐れることなく、歩むことが適うのです。

 それくらいに復活信仰は、私という存在を強くします。そして、この強さとは、私自身による強さではなく、主イエスの復活により与えられる強さです。さらに言うならば、この強さの正体とは、神によって約束された永遠の命を与えられていることを示します。死に行く命ではなく、永遠に神と共に生きる者とされている。その意味で永遠のいのちという言葉が語られるのです。

 この平安を私たちは主イエスの復活を通して与えられています。そして、この平安は、この世のいかなる権威も、力も犯すことはできません。今こそ、皆さんどうぞ今までのご自身の歩みを思い出してみてください。悲しみ、苦しみ、悩みの時に、そこには確かに復活の主イエスが居られたはずです。一人きり、自分の力だけでは、それらを受け止めきれなかったと思うのです。

 私たちは、神の道をいま歩んでいます。迷う者、途方に暮れる者ではなく、神を仰ぎ見る時、主イエスの復活を信じる時、たとえどこに居ようとも、どこに立たされていようとも神の御許にある力強さと、喜びと恵みを覚えてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。